映画『ビリー・リンの永遠の1日』~永遠に戻れない日

「永遠の1日」って、永遠のように感じる1日って意味じゃなくって、「永遠にすべてがひっくり返ってしまって元には戻らない日」のことだと思う。

30年弱しか生きていない私にすら、そんな1日は存在する。きっと多くの人が、「その日」を思い浮かべられるのではないだろうか。

 

ビリー・リンにとってはそれが、たった19歳で経験したイラク戦争の戦場で、慕っていた先輩兵士を失った戦闘の日だった。けれども、戦場と遠く離れた母国アメリカは、危険を顧みず先輩兵士を助けに行った彼の勇姿をたたえ、戦意高揚の象徴として彼をヒーローとして大げさに祭り上げる。世界を見る目が変わってしまう、彼にとって人生最悪の日が、母国の人々に礼賛されて、利用されて…、最も馴染み深かったはずの家族や、母国や、うまくいきそうだったガール・フレンドとも埋められない隔たりを感じて、結局彼は2週間の一時帰国ののち、戦場へと戻っていく。

 

Filmarksの中のとある方のレビューで、「国を守るために戦地へ赴いている兵士たちの居場所が戦場だけになるなんて…」と書かれてあったのが印象的だった。ビリーにとって、文字通り生きるか死ぬかの激闘と訓練を共に乗り越えた隊の仲間たちが唯一、理解しあえる相手であり、戦場だけが、現実味を与えてくれる場所になってしまう。

 

この映画は、監督も俳優陣の演技も音楽も演出も脚本もタイトルまですばらしいのだけど、もっともすばらしいのは、多くのレビューでも書かれている通り、戦地を舞台に戦争の惨さや兵士たちの精神的ストレスを描くのではなく、平和な母国の日常に戻ってきた若い兵士たちに対する、薄っぺらな賛辞やエール、彼らの英雄譚を利用しようとするショービジネスに関わる人々といった外野のリアクションと、それに対する兵士たちの戸惑いや憤りを描いている点である。

 

「外野」とはつまり、戦争に行ったことのない「私たち全員」であるから、この映画を見た人は、平和な世界で些細な悩みごとに気を取られている自分を恥ずかしく思ったり、誰かがやらなければならない(とされている)ことを自分はやらずに誰かにやらせているということに思いをはせたりすることになる。この映画を真剣に見れば、決して自分も無関係に感じることはできないはずなのだ。そのように思わせることのできるこの映画の描き方が、本当にすごい。比較的抽象的な、大きなテーマを伝えるには、見る人に自分事としてとらえてもらうことが最も効果的だからだ。

 

戦地から一時帰還したビリーたちをたたえるチアガールのうちの一人と、戦地に戻るのをやめようか悩むほどに心を通わせるものの、最後の最後で、やはり彼女も自分を感動的な英雄譚のヒーローとしかとらえていない事実を突きつけられ、彼女の理想のヒーロー像に合わせて「母国を守るために戦地に戻る」と笑う彼が本当に切ない。

 

多くの人がレビューしている通り、この映画は、フットボールのハーフタイムショーに招かれた兵士たちが、「アメリカを代表するヒーロー」としてショーの演出の一部に組み込まれ(ディスティニーズ・チャイルドのパフォーマンスに合わせて行進する演出!)、目の前で打ちあがる花火の音や、叫び声に似た人々の歓声に、戦地の体験がフラッシュバック(PTSDの症状)する―つまり現実のショーと、回想が交錯するように描かれているのも、臨場感たっぷりですばらしい。

 

レンタルしたDVDの特典では、監督やキャストがより明確に登場人物の心情などを語っていて、映画を見終わった後に特典を見てもう一度泣いてしまった。私には、ビリーと、彼を必死で戦場に戻らせまいとするビリーと仲の良い姉の関係が、特別響くものがあった。弟が、苦しみ悩みぬいた末、自分の判断で「戦場に戻る」と決めたなら、私はビリーの姉のように、「あなたを誇りに思う」と送り出せるだろうか―。

 

実感しなければ、自分事にならなければ、何も語れない。最近強くそう思う私にとって、身近ではないはずの戦争や、そこで役割を果たす兵士のことを、今までよりは現実味をもって思いを寄せることができるようになった、とても大事な映画になった。ぜひ、たくさんの人に見てほしい。

 

 

桜は「春の訪れ」なんかじゃない

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ツイッターの中が桜の写真でにぎわっている。

テレビでも、代々木公園にお花見をしに来た人たちの姿を映したりしていて、世間はすっかり春の訪れを祝っている。それもとても華やかに、晴れ晴れしく、盛大に。

 

けれど…北海道の春は遅い。

今桜の開花を喜んでいる人たちよりも長いこと冬を耐えてきた。しかも気温は氷点下20度台に達するほどの厳しい冬だ。

今年は北海道すらも春の訪れがいつもより早めとはいえ、田んぼにも畑にも、まだまだ重たい雪が1m近く残っている。

朝方は未だ時々氷点下になり、アスファルトに流れ出た雪解け水が凍っていたりする。

 

そんな北海道の私たちが、やっと感じる春はとてもつつましやかで、じれったいほど控えめで、のんびりしている。

都会の人々は桜の木々を見上げて春を見つけるのかもしれないが、私たちは下を見下ろす。

雪が融けて現れたばかりの、去年の枯草の下から、ゆっくりと顔を持ち上げる、黄緑色の「春の妖精」を足元に見つける。それは、フキノトウ

 

野山で耳をすませば、融けかけた雪の下を、ちょろちょろと流れる水の音が聞こえる。

 

そして雪の面積がぐんぐん減っていき、地面が見えてくるほどに、春の野草や山菜が競うように顔を出し、花を咲かせる。福寿草ヨモギキバナノアマナ、つくし、たんぽぽ、ヤチブキ、カタクリエゾエンゴサク。そして、それらが終わったころやっと桜が咲く。その頃にはもう、5月を迎えているのだ。

 

私たちにとって桜は、春の訪れなどでは決してない。

足元の小さな生き物たちが、やさしく、控えめに教えてくれる春。まるで進んでいないかのように見えて、半歩ずつでも進んでいる、静かでのんびりとした春の、最後のおまけのようなもの。祭りの幕引きの、花火のようなものなのだ。

 

気候と生活コスト~沖縄と北海道の移動に思うこと

 身軽であることや、生活コストを下げることを考えている最近の私にとって、まだ春とは言えない北海道という北国と、初夏の陽気に満ちた沖縄という南国を行き来したこの一週間はとても貴重な体験になった。たとえ初めてではない体験だとしても(北海道⇔沖縄の移動はこれで6回目だ)、その時の心境によっては、全く新しい体験になりうるのだ。

 

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気候と生活コストのこと

もっとも考えたのは、北国で暮らすことの、コスト面のデメリットだ。

長いことその地域に暮らしている人、特に、異なる気候の地域に出かけることのない人は、これは意外と気づきにくい。

雪国の冬はとにかくお金がかかる。それは家庭・個人レベルでも、行政レベルでもだ。

暖房、衣服、スペース、労力…個人レベルのコスト

個人レベルだと、よく言われるのは暖房の燃料代だ。ストーブが必要なほどの気温(10℃~マイナス15℃)は、半年以上(10月末~5月)続く。

 

さらに、当たり前すぎて意外と忘れているのが、スタッドレスタイヤ代。1度買えば2年はもつとしても、1度の出費はかなり大きい。前述した燃料代と同様、1年の半分冬タイヤを履いているので、距離を走る人なら夏タイヤと同じスピードで消耗していく。細かい事だが、冬は暖房や四駆のおかげで燃費も悪い。また、駐車している間にフロントガラスに氷がつくので、夏よりもアイドリング時間が長い。

こういったコストが、雪のほとんど降らない地域では全くかからないということに気づいた時私は愕然とした。

 

もうひとつ、これはかなり盲点ではないだろうか。それは冬物の衣服代だ。

これはセーターやコートだけでなく、マフラー、手袋、帽子、ブーツに至るまで、寒さや雪に備えるためのグッズは多岐に及ぶ(衣服ではないが、人によっては小さなひざ掛けや湯たんぽ、電気毛布なんかも使うだろう)。

沖縄の人が冬(最低でも10℃くらい)に、サトウキビ畑に囲まれた道をもこもこのコートを着て歩くことがあるように、ファッションとして買いそろえるなら「コスト」ではないけれど、雪国ではなくてはならないものだ。これらは、家のクローゼットの大幅を占めることになり「スペース(家賃)」というコストもかかることになる。

寒い土地や日照時間が短い土地の住民は気分が落ち込みやすいという話は聞いたことがあるが、雪国では出かける際に着なければならないもの、持たなければならないものが多くて出かけることが億劫になると感じる。とにかく荷物が多い。

北海道から沖縄に出かける際は、中間地点で来ているものを何枚も脱いでカバンにしまっていかなければならない。それでも沖縄で着る服は薄いものでよいが、もし逆方向に移動するなら、荷物は倍以上に膨らむだろう。

 

危機意識のある人なら、雪道で動けなくなった場合に備えて車には常にスコップや牽引ロープ、ヘルパー、予備の防寒着や毛布などを積んでいる。これも、荷物とスペースという名のコストだ。

 

私が一番何を言いたいかお分かりいただけただろうか。

雪国では、とにかく身軽でいるのが難しいのである。

 

今までの北海道から沖縄の移動では、何を着て、何を持って行くか考えるのが難しいな程度にしか考えていなかったけれど、今回は、自分が現在住んでいる北海道では、簡単には身軽になれないことをわりと深刻に考え直すことになった。

雪国では、燃料や冬タイヤや衣料品にかかる「金銭的」コスト、収納・積載する「スペース」というコスト、移動する際の荷物になる「労力」というコストが、どうしたってかかってしまうのである。

 

 除排雪と、アスファルトの修復…行政レベルのコスト

ここまでは個人・家庭レベルのコストについて書いてきたが、この2018年の冬の終わりが近づくにつれて、北国であるがゆえに背負わなければならない行政レベルのコストについても頻繁に考えるようになった。

その筆頭はもちろん、除排雪だ。

今年の私の住む地域では、特別積雪が多かったわけではないものの、除雪回数と、排雪量の減少が目立ったために、渋滞やスタックなどのトラブルは例年以上に増えたように思う。実際に事情を聴いたわけではないけれど、行政が除排雪に適切な予算をかけなかったというより、単純に担い手(請負業者と従事者数)が足りなかったのではないか…と感じる。

少しそれてしまったけれど、とにかく一定の積雪がある地域の除排雪のコストは膨大なものだろう。そして道路の雪解けが進むにつれて、今度はアスファルトの損傷が目立ってくる。温度差が大きいために、アスファルトに穴が開いたり、凹凸が生まれて波打ってしまったりするのだ。今まさにその修復が少しずつ進められているが、年々アスファルトの損傷はひどくなり、それに比例して修復も追いつかなくなっているように感じる。このコストも、温かい地域にはないものだろう(もちろん、違う気候や特色のある地域には、その地域特有のコストが発生しているだろうけれど。潮風や台風や火山の被害など)。

もちろん、各家庭での「雪かき」も時間と労力という膨大なコストなのは間違いない。一定量の雪が降れば、日中少なくとも1時間前後は雪かきに時間を取られることになるのだから。

 

温暖な地域に心惹かれる

北国の人間にとって、沖縄を代表とする南国はもう温かいというだけで憧れの対象なのだが、生活コストを下げて、持ち物も減らしたい人間にとって、温暖な地域はなおさら楽園に思える。

もちろん、私は今まで沖縄県石垣島に、長くて2カ月半滞在しただけなので(しかも10月~12月)、夏の暑さや湿気のしんどさ、台風の恐ろしさ、その他もろもろ想像しきれていない、地域特有の大変さはあるんだろう。隣の芝は青く見えるものだもの。

それにしても、ろくに行ったこともなかったくせに、北海道から石垣島へ、ポーンと移住してしまった母親たちはほんとすごい。知らなくてもできるんだから、ある程度知っている私にできないはずがない。

ということで、きっと沖縄県に住む日もやってくるでしょう…永住ではないだろうけれど。

失っても同じ星にともに暮らしている―『2001年宇宙の旅』『ベイビー・ドライバー』『イントゥ・ザ・ワイルド』

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いい映画を立て続けに見ている。

 

今日はSFの不朽の名作と言われる『2001年宇宙の旅』。

「地球に帰る」というような表現で、人類が当たり前のように宇宙やほかの星を行き来するようになったら、国家の概念はいっそう薄まり、「みな同じ地球人」という感覚が生まれて争いをやめるのかな、と考えた。でも今度は違う星の住人との争いが始まるのか…

個人的に、祖先である猿人がずっとウホウホ吠えている、人間の「セリフ」の全くない最初の数十分で、すっかりやられてしまいました。

 

昨日は『ベイビー・ドライバー』。見ていて気持ちいだけのハデなカーアクションものかと思いきや、それだけじゃなくていい意味ですっかり騙された。

たぐいまれなるドライビング・センスを持つ無口な青年ベイビーが、意に反して裏社会へ引きずり込まれそうになりながらも、耳の聞こえない里親や、恋してしまったウェイトレスの彼女を守るため戦う(アガる音楽を聞くとベイビーは強くなる!)…ストーリーはわかりやすく王道をいっているけれども、リアリティもちゃんと(たぶん)ある爽やかなラストにホッとして見終われる心温まる映画でした。多くを語らずとも目や行動で語るって、素敵なことですね。見習いたい…

 

その数日前は…もうこれは今まで見た映画でベストなんじゃないだろうか…『Into The Wild』。

私の世界への興味がどんどん深まっている。そんな中でこんな愛おしい物語に出会ってしまった。数行で語るには、私の理解も深まっていないし、映画を見直して、さらに原作も読んでからこのブログに改めて感想を書きたい。

とにかく心に焼き付いたのは、たった一人アラスカの荒野へ向かったクリスの、厳しくも美しいありのままの自然を捉えた瞳…。なんてなんて、美しく愛おしい心だろうか。

 

 

たくさんの素晴らしい映画たちが教えてくれるように、世界は今私がいる「ここ」だけじゃないのに、世界から見たらほんのすぐそこにいる「あなた」がこれほどまでに遠い。天気が良ければ対岸が見えるような、ちょっとした海を隔てただけなのに…。

 

でも……

 

でも。

 

同じ星に暮らしているよね。同じ世界に。

 

ただそれだけのことで…心は離れても、あなたはやっぱり私の中にいるのだ。

 

例えばいつかクリスのような、帰らぬ孤独な旅に出た時、美しいものや怖いものを見たことを、あなたに聴いてほしくて、語りかけるだろう。寂しさを紛らわせたくて、あなたに向けてひとり言をつぶやくだろう。そしてあなたの応答を想像しながら歩く。それだけで、次の一歩を踏み出し続けることができる…ような気がするんだよ。

 

 

さて、明後日から一週間、沖縄です。行ってきます。

 

映画『SPLIT(スプリット)』~「解離性同一性障害」を演じるマカヴォイの凄さ

コンテンツにしないのはもったいないと今さら気づき、映画を見た後はなるべくブログを書こうと思います。

 

TSUTAYAで借りようかと思ったらAmazonプライムに追加されていて早速見ました(TSUTAYAで借りたい映画があったらまずプライムにないかチェック!せっかく会費払っているのだから無料で見ない手はありません笑)。

 

X-MENでチャールズの青年期を演じたジェームズ・マカヴォイは、この映画「スプリット」(「split」直訳は分裂)で23人の人格を持つ解離性同一性障害者(おそらくオリジナルの人格の名前は「ケビン」)を演じます。

 

23人の人格の中には女性もいれば9歳の子どももいるし、理性的で知的、すべての人格の手綱を握る人格や、狂暴な人格もいます。23人すべてが登場するわけではありませんが、ひとつの身体に宿ったそれらの人格が、一瞬のうちに入れ替わるのを、そして入れ替わる間の苦痛と戸惑いの表情も含めて、見事にジェームズ・マカヴォイが演じ分けています(顔の筋肉の力の入り方や、眉で表現される穏やかさ、優しさ、凶暴さ…もう見事です。観客に5つの人格の特徴をすぐにつかませます)。

 

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27歳、不安はないけど自信もない

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昨日は、4ヶ月に1回開催しているイベント「パワーアップカフェ」当日であり、27歳の誕生日でもありました。このイベントでは、2018年に入ってこのブログに書いてきたことを、初めて対面で多くの方(しかも初対面の方ばかり)に話す機会となりました。

 

そんな機会が誕生日当日であったということは、なんだかとても意味のあることに思えて、今までのいくつもの誕生日のことなどほとんど記憶にないけれど、今回のことはずっと覚えているんじゃないかなーと思った。

 

ある方に、「あなたの生き方は、孤独ではないのか、不安はないのか」と聞かれました。私は、孤独感はずっとあるけど、この選択に不安はない、と即答しました。

 

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2018年2月の私の本棚

 

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2018年2月、私の脳内はいったいどんなことになってるのか―そんなことが垣間見える、最近借りた本&買った本。どうも、世界旅行と、多様な働き方、それに世界の未来みたいなものに、興味があるようですな笑

 

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