思い込み“努力すれば報われる”は時代に反した愚行~イケダハヤト氏の『新世代努力論』

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イケダハヤト氏の新刊「新世代努力論」読了。書評というよりは要点まとめです。

 

 

私の知り合いには仕事のストレスで休職・退職してしまった教師、

鬱で引きこもってしまった友人に何もできなかったと心を痛める友人、

部下の仕事との向き合い方が理解できないと嘆く経営者などがいます。

 

そんな話を聞いていて、

彼らは休職や退職のタイミングをもっと我慢すべきだったのか、

あのまま続けたら心身を壊していたんじゃないのか、

「がんばっているか否か」は誰が決めるのか、

どこまでやれば「努力した」ことになるのか、

そもそも努力のベクトルが人によって違うだけでみんなその人なりに頑張っているはずなんじゃないか、

とモヤモヤっとしていました。

 

そんな私のモヤモヤにひとまずの決着です。

もちろんこれからの実践ありきなのですが。

 

 

「新世代とは」

 

タイトルにある「新世代」とは、人口が減り、日本人の仕事が減り、経済が縮小していく時代です。

退職後の「年金暮らし」は死語に変わり、死ぬまで働く。

どうしようもない事情でお金に困っても、心身を壊しても、救ってくれるはずの公的なセーフティネットは機能しない時代です。

 

つまり経済が下りエスカレーターの時代は、高度経済成長期やバブルのころより、「努力すれば報われる」は経済的には成り立ちにくくなっている時代なので、過剰な努力をしてまで心身を壊してしまっては元も子もない、努力もへったくれもないぞということです。

 

 

このような冒頭部分を読んで、「努力が報われにくくなっているから努力を無理にすることはない」っていうのは弱虫な私でも「逃げじゃないか?」と思いました。

たぶんそんな論理では「努力は揺るぎようのない美徳」「結果が出せないやつは努力してないやつだ」と思い込んでいる人間を説き伏せられないなーと。

 

でも、そうではありませんでした。

当然何かを達成するためには努力は欠かせないものであり、努力をする必要がないと言っているわけではないのです。

そうではなく、この話は「努力した方がいい」「しなくてもいい」という問題ではなく、結論から言うと、「努力すれば報われる」という思い込みを持ち続け、あるいは誰かに押し付け続ける社会は破滅を招くから、「努力」についてもう一度事実に基づいて考え直しましょうというのです。

 

 

「努力すれば報われる」は傲慢な考え

 

なぜ「努力すれば報われる」は傲慢なのでしょうか。

「報われる」とは一定のある程度満足できる結果が得られるということですよね。

つまり「努力すれば報われる」とは、自分の行動次第で結果をコントロールできると思い込むことなのです。

 

結果には運も環境も影響します。努力は一因ではあるかもしれませんが、全てである可能性は稀です。

 

努力が100パーセントに近い割合で結果に通じると信じる場合、結果が出なかった時にはその原因も自分にあると考え、自分をダメ人間だと決めつけます。

逆に、結果が出せなかった人に対しては「結果が出せなかったのはお前が努力しなかったからだ、結果が出ないのはお前のせいだ」と決めつけてしまうでしょう。

 

「努力すれば報われる」は傲慢、だから「結果が出なかったのは自分の努力が足りなかったからだ」と決めつけるのも、誰かを自己責任と責めるのも傲慢ということなのです。

 

 

「努力」は誰もが得られるとは限らない「スキル」

 

「努力」が、スキルと言われて思い浮かぶ「英会話」や「速読」などと同列とは、とっさには呑み込めない考え方だと思います。

けれど、赤ん坊が生まれた時から努力できるわけではないのはないのは明らかなので、先天的なものではないことは確かですよね。

 

イケダさんによると、「努力」とは、誰かに認められて、自己肯定感を適切に育んでもらうことから伸びていくものだということです。

努力は自分の力だけで獲得できるわけではなく、他者によって、環境によって、運によって、後天的に身に付くスキルなのだと。

 

だから、あなたが努力できる人間だとしてもそれはたまたま恵まれていただけで、努力できないのはたまたま恵まれなかっただけ、ということなのです。

 

よく「ホームレスになったのは努力が足りなかったから」とか、「生活保護受給者は自業自得なんだから支えてやる必要はない」的な自己責任論が言われますが、それは誰しもが生まれた時から平等な機会を与えられているという勘違いもはなはだしい前提に立った無責任な考え方だと、イケダさんは言います。

 

 

自由について、求めるものについて

 

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これは私自身の考えですが、そもそも人は好きなこと、達成したいことのためには努力しない人なんていません。

パチンコの善悪は別として、パチンコが好きで努力して研究してそれで食べていくまでになる人も一部にはいるわけですよね。

 

今の若者にとって「じゃんじゃん稼いで豪遊する」ことや「会社の中でのし上がる、偉い人になる、有名人になる」ことはあまり憧れることではありません。

かつてはそれが「自由」であると考えられていたようですが、今はたくさんのお金がなくても自分が満足できる自由は手にできるからです。

私はこれっぽっちも経済的に余裕はありませんが十分自由です。

好きな人と暮らし、好きなことをし、好きな人に会いに行ける。

そのための生活づくりには努力を惜しみません。

 

なぜそのような価値観が増えたか。

それはイケダさんによると至極当たり前で、「お金を稼ぎにくい時代」の若者なりの自衛策

 

経済が停滞、縮小していく時代であるからこそ自由の形・求めるものは変わり、

それによって努力の仕方や方向もがらりと変わっていくのは必然のような気がします。

 

 

努力論ならぬ「根性論」の押しつけは社会を良くしない

 

「努力すれば報われる」は危険で傲慢な思い込み、努力はスキルという考え方は、感情論ではなく事実に基づいた考え方です。

 

一方「努力すれば報われる」は、もはや努力論ではなく経済成長のパワーに頼った無知蒙昧な「根性論」です。

もう経済成長のパワーに頼ることはできない以上、きちんと事実を見据えたうえで「根性論」ではない新しい「努力論」をインストールし直し、経済成長を前提に組み立てられたシステムを大幅にアップデートしていかなければ社会は立ち行かない。

 

なぜなら、感情的な「根性論」を押し付けてしまいがちな、今のアラフォー世代以上の世代の人々たちを支えていかなければならないのは、彼らが無意識に自分たちの尺度で「努力」を測り押しつぶさんとする、「新世代」を生きる若者たちだからです。

 

経済が上向きだった時代の価値観を盲目に押し付けている場合ではなく、冷静に「努力」とはいかなるものかを見据え直し、健やかに社会の中で生き延びられる可能性も、そもそも人数さえも減り続けている若者たちを理解していかなければ、社会は立ち行かない、とイケダさんは語っています。

 

これは「自分たちを理解してほしい」という若者の懇願ではなく、“必然的に異なる価値観を持つことになった若者”が時代を引き継いでいくにあたっては「そうでなければならない」と強く主張しているのです。

 

 

若者とのコミュニケーションにどうしようもない壁を感じているあなた、

時代が変わり、前提が変わり、それに対応してしなやかに心すこやかに生きていくために、

「新世代努力論」、参考までに読んでみませんか?