風見鶏かもしれないけど実感とともに自分をつくっていく
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たくさん文章を読んで、毎日ブログを書くようになって、最近思うこと。
とっても当たり前のことかもしれないけど、自我はあとから芽生えるもの。
家庭に始まり学校に始まり、たいていはさほど疑わず与えられるがままに情報をインプットして、最初は知識でかためられた頭でっかちな人間になるという道を誰しもが通るのかも。
そして生きていくにつれて、よほど閉じこもっていない限りさまざまなことが実感で裏づけされて、経験で根拠付けられて、その人なりの血の通ったオリジナルの言葉になっていく。
私は最近膨大な量のインプットをしています。本から、雑誌から、ブログから、そして取材や体験を通して、人から。
本やブログは、自分と方向性の近いものばかり読んでしまうので、自分の頭に全くないものも読まなきゃなーと思うのです。
けれど、やはり私が直感的に思うこと、肌で感じる最近の流れみたいなものは、ある程度の発信力を持つ近い年代の人たちとかなり一致するものであり、自分の考え方について日々確信を強めてもいるのです。
人との対話においては、自分と近いと思っていた人が実はかなり向こう側にいたり、世代が離れた人でも、私の考え方を肯定してもらえたり・・・
今は求めているような本とも出会いやすくなったし、すぐそばに理解者がいなくてもウェブの中には必ず賛同してくれる人がいる。自己肯定感が得られにくくなったと言われる現代で、私は逆にウェブというツールを手に入れて、人とも出会いやすくなったし生きやすくなったと感じる。
その反面、望めば、自分を認めてくれる、あるいは自分が認められる思想、本、人ばかりでまわりを固めることができてしまう。
つくづく私は風見鶏だなあと思う。
いろんな本を読み、いろんな意見を聞きながら、なんでも「たしかに」と思ってしまう。
簡単に説得されてしまうのだ。
吹いている風に簡単に流されてしまう。
でも大学の終わりころから、自分の経験や実感をともなってわかってきたこともたくさんある。それにやっと確立してきたと思った考えががらりと崩れたこともある。
今の私は頭でっかちで、思い込みが激しくて、行動のともなわないどうしようもない人間かも。
でも私は「定職」からはずれて石垣島に行き、いままで以上に数々の「実感」を得るだろう。
それはきっといま猛烈にインプットしている情報を肉付けていくものになるはず。
その中で自分は甘かったと反省することもあるだろう。何かに失敗しても何とかなるさと思うかもしれない。
風見鶏の私があらゆることに少しずつ自分の言葉を持てるようになっていく。
そして迷える誰かの道に少しでも、自分を認めてあげられるような光を投げかけられたらいいと思う。