道草閑談第3号 -クルミの冬芽…そして父のコーヒーの話-

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自然の中で、多くの生き物たちの中で、自分が、人間が取るに足らない存在だと知った時、植物も動物も人間もない、ただ他の命と共存していられる瞬間を嬉しく思う。


いつ訪れるかもわからない死もあまり怖くない。生命たちの繰り返す営みの中に混ざれるなら。


若き母と、同じ年の頃の私の、春の喜びはとても似ている。父の歌の意味も心にすっと入って行く。

そう感じました。


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道草閑談 第3号 199381日発行

 

満月山の子供たち

 

川辺の散歩道

 畑に追いかけられていたら、「道草閑談」第三号は真夏になってしまいました。けれども、お話はまだ春。我が家に蕗くんが誕生したように、満月山の麓でも、たくさんの新しい生命が芽生えました。どうしても書き留めておきたかった色鮮やかな江丹別の「春」をもう少しだけ…。

 

 満月山の裾には江丹別川が流れています。助産所を退院した蕗と私はベッドの中で休みながら雪解け水の音を聴き、もうそこまで来ている春を感じていました。

 江丹別川が雪に埋もれていた頃は私のお腹も大きく、蛍も着膨れていて、歩きにくい雪道が怖かった。二人で毎日外に出てみるけど、すぐ「お家で温かいお茶飲もうか」「うん、あったかいジューク(牛乳)飲む」と家に戻ってしまいました。

 いよいよ春を運ぶ風が吹き始め、日差しがやわらかくなると、小鳥たちのさえずりが人里へ下りてきて、フキノトウが次々と顔を出します。続いて庭のクロッカスとフクジュソウも目を覚まし、こうなると私も産後ということをすっかり忘れ、ムズムズしてきました。蛍も懐かしい土の香りに安心したのか、ご自慢の「キティちゃんの長靴」を得意満面、自分の手で足にズボッと入れ、外に出ていきます。フキノトウを見つけては「ほら、ここにも蕗ちゃんのお花!」と、しきりに私に教えてくれます。優しいお月様色のフキノトウは本当におくるみに包まれた赤ちゃんのようです。

 蕗を寝かしつけては、満月山の裾を散歩するのが二人の日課となりました。川の流れも興奮ぎみ。そのしぶきを受けて沢ヤナギの細い枝たちも踊っています。先っぽの銀色の穂もずんぐりとした赤ちゃんの頭のよう。小さな拳のように見える木々の若芽たち。「まぁ!まるで赤ちゃんの産毛みたい!」と触れるとイタタ…。イラクサのトゲは柔らかいけれど、とても痛い。

 次に私たちをハッとさせてくれるのは、ミズバショウとヤチブキのコントラスト。流れの速い川面の反射を受けた、鮮やかな白と黄色が、今度は目に痛い。丘をくすぐる風にそよぐのは、優しい水色や薄紫色のエゾエンゴサクと色白のエゾイチゲたち。

 蛍も私もウットリ、しばし呆然。更に、足元もおぼつかなく歩いていく私たちを待ち受けていたのは、目の覚めるようなピンク色のカタクリだったのです。

 満月山の麓は、色とりどりの草や樹の子供たちでいっぱいです。

 「まぁ、ここにも赤ちゃんが…」とツクシンボに触れた瞬間、家で寝ている蕗の事が頭に蘇りました。私は蛍を抱きかかえ、草の道を急に走り出す。「カオコ気をつけてね。落ちるからね。危ないからね」と、蛍は面喰らいながらアドバイスしてくれます。こんなおかしな散歩が毎日続きました。

 お花は次々と咲きかわります。急いでいるのに蛍を抱えたまま、またしゃがみ込む。美しい三枚の花びらが印象的なオオバナノエンレイソウニリンソウキバナノアマナ、スミレ。驚いたのは、高さ三センチほどの小さな小さな青紫色でリンドウにそっくりの花。家に戻って「北海道の花」という本を開いてみると「あった、あった、フデリンドウ」。

 去年の夏、友人からオニグルミの苗を七本いただきました。よく見ると、なるほど小さいのに山のクルミの大木をそのまま縮めたような姿なのです。もう一つ、ヒメグルミというハート形の実をしたクルミがあって、これは仙台の義母が一昨年の秋に送ってくれたもので実がとり易くてたいへん美味しい。「芽が出ないかな」と昨年の春、プランターに埋めておいたものが忘れた頃に二本だけ目を出していたのです。その合計九本のクルミを畑の隅や庭に大喜びで昨秋に定植しました。

 …ところが冬間近の強い霜に当たって、残念ながら私たちの大切なクルミの苗は、残らず枯れてしまったのです。葉は黒く、力なく垂れ下がって…そのまま江丹別の二メートルを越える雪の下へ消えてきました。

 そして今年の春。友人の井代さんの所で偶然見せていただいた新聞の切り抜きが意外な事を教えてくれました。

 「塩谷秀和の神居の森紀行」と題されたその連載記事の中の一枚の写真が、たまたま木の芽をアップに撮った写真で、その説明に「帽子のようなクルミの冬芽、サルの顔に見えるのは葉痕」と書いてありました(この塩谷さんは大雪ネイチャーガイドというお仕事をしていて、大雪山を徒歩やスキーで案内してくれます。私たちはヒデさんと呼んでいてお友達。とってもステキな方)。写真の木の芽にはなるほど、おサルさんの顔がついていて「うちのクルミもしっかり越冬できたら、おサルさんが見れたのに…」と少し残念な気分でその記事を読みました。

 …それから数日後の事。畑の縁を歩いていて、ふと「去年植えたクルミは、この辺だったかな」ち、目印に差しておいた竹竿のあたりに目をやると、見覚えのある小木が立っているではありませんか。しゃがみ込んでよく見ると…サル!枯れてはいません。まだ新芽は出していないけれど、小木はしなやかで、りりしい姿。七本のオニグルミは、とぼけたサルの顔をつけたまま、ひっそりと…でも力強く生きていたのです。「サルだ、サルだ」と私は興奮してカズと蛍を呼び、一緒に二本のヒメグルミも探し始めました。「あるかなぁ…」と少しドキドキしながら草の中を歩いていると側にいたカズが「あった。これだ。」と言うので見ると、ちょっと違った顔つきのサルの葉痕を持つ小さな木が二本。春を夢見て九本のクルミの子供たちは、じっと寒さと雪に耐えていたのです。

 春から夏へ…木や草花はリズミカルに伸び神様に教えられた順序を守りながら互いに咲き乱れ、散っていきます。

 ある日、街の友人にエゾエンゴサクの花を届けようと川辺に摘みにいくと、薄紫の花びらが一面に散らばっていました。離れた所から見た、残された茎と葉はとても淋しい姿だけれど、近づいてよく見ると、花のあった所に固く締まった種のサヤが付いていました。

 花の季節は終わっても…茎や草は枯れてしまっても、それはすべて森の新たなエネルギーとなり、種子として充実した生命を永遠のものにしていくのです。散っていったエゾエンゴサクの姿を私は忘れないでしょう。

 永遠に訪れる満月山の春。来年もまた、優しい草花たちが姿を現すと思うと、今から嬉しくなってきます。来春は、蕗も一緒にお散歩できるし、タンポポ、クローバー、スズラン、スミレ…と、たくさんのお花を覚えた蛍は、きっと先頭に立って歩き、したり顔でお姉さんぶりを発揮することでしょう。 【カオコ】

 

『彩』

         詩・曲 KAZU

森の彩り 匂い その深さ

今も昔のままに

首をかしげては 僕を見つめる

シジュウカラ ヤマバト エゾアカゲラ

語りかける声 言葉にならずとも

わかっているよ 僕たち

ありのままの姿でいたなら

このまま緑色に融けてゆけるよね

 

川の彩り 匂い その流れ

時うつろうままに

さりげなく触れては 通り抜ける風

海に向かうサケの子供たち

語りかける声 言葉にならずとも

わかっているさ 僕さえ

生まれたままでいたなら

このまま水色に融けてゆけるよね

このまま溶けてゆけるよね

Uuu

 

 

コーヒーの話

 

 コーヒー豆の販売をしている以上、やっぱり避けて通る事のできない話題だ。

 コーヒーを煎り始めた当初は、ほとんどあらゆる種類のコーヒー豆を扱っていたのだけれど、先進国と発展途上国の不均衡(先進国による搾取)、残留農薬等の問題で現在扱っている「第三世界ショップ」を窓口としたブラジル(ムンド・ノーボ農場)のコーヒー豆一本に絞った。勿論それでもいろいろ問題はあるけれど、少なくとも物価の違いを逆手にとって強盗同然のように取引するよりは、いくらかマシかな、と思っている。

 それはともかくコーヒーの話。

 ここに「コーヒー専科」という本がある。その中から少々言葉を借りることにしよう。

『コーヒーの樹は熱帯地方に育つ、アカネ科コーヒー属の常緑の潅木(低木)で、花は白色。開花後、六~八ヶ月たった果実は、緑から黄色になって、それが赤くなり、さらに紫色を帯びた深紅色に熟する。品種によって黄色のまま熟するものもある。この果実の中にある種子がコーヒー豆で、普通半球型の豆が抱き合わせで二個入っている。互いに接している部分が平らなことから、フラット・ビーンズ(平豆)と呼ばれるが、全体の約一割程度に片方だけ成長したものがあり、これをピーベリー(丸豆)と呼んでいる。特に風味は変わりない』

『コーヒー豆の産地は、南米、中米、東南アジア、オセアニア、アフリカ、アラビア、インド等、主に南北回帰線にはさまれたベルト地帯である。コーヒーの樹は元来アフリカに広く自生していたらしいが、一応アビシニア(現エチオピア)がコーヒーの発祥の地とされている』(内容は僕が勝手にまとめた)

 どの産地のものが高級とか、おいしいとかいう問題の判断は、あまり意味のある事とは思えないので避ける。…というのは、それぞれ気候の差異がある以上、味が違うのは当然だし、良悪というより個性の違いである。それにコーヒーは特に、全世界的な権力(経済)争いに巻き込まれてきた農産物で、その力関係やメディアによる流行性もあって、良悪の議論は生産者とコーヒーの樹に失礼なような気がする。

 コーヒー豆の良悪は、ローストの問題だけにしたい。

 例えばこの本を見ても、ロースト技術については実に難しい事が書いてあって、ローストを七年やってきた僕自身、頭を抱えたくなる。実際、この本はコーヒーの話だけで二百頁もあるというのがどうかしている。本屋さんに、これより厚い本が置いてあったが、一体何が書いてあるのだろう。

 ただ経験上「これだけは…」と思う事は、コーヒーの生豆の水分(湿り気)をよく知って、臭み(青臭さ)をうまく飛ばし、均一な爆ぜ方(膨張)とカラメル化を導くことだ。細かい事を言えば、その日の気温や湿度にも左右される。その味の違いがまたなんとも微妙で面白い(…だから、多少の味の違いはお許しを…)

 ローストの度合によっても味が変わる。当たり前だけれど、ローストが深ければ深いほど豆の色が濃くなり、苦みが増す。反対に浅ければ浅いほど色が薄く、酸味が強くなる(つなみに自然派工房WANDERLUSTでは、浅い方から深い方へ順に、ミディアム・ロースト、シティー・ロースト、フル・シティー・ロースト、フレンチ・ローストという四段階でローストしたコーヒー豆を扱っていますのでヨロシク!)。

 そして何より、味の良さは鮮度にある。生豆の質やローストがどんなに良くても、鮮度が悪くなったらおしまいだ。ロースト直後よりは、一日目から二日目がおいしく、それから二、三週間がベスト。高温と多湿は著しく鮮度を落とす。低温であればあるほど長持ちする。真空パックや窒素充填している商品もあるけれど、これはむしろ流通側の都合の問題で、賞味期限内であっても飲んでみるとやっぱり香り抜けしていて、僕はあまり効果がないと思っている。鮮度の良いコーヒーは、湯を注いだ時、フィルターの上でコーヒー粉末が水を含んでドーム状に膨らんでくる。

 さて、一番気になる体に対するコーヒーの影響はどうなのか。「カフェインが…」とか「いやいや昔からコーヒーは薬だった…」と、いろいろ言われる。

 まず、基本的な事として、自然条件において日本で栽培ができない以上、日本人には必要ない物だ(売ってるくせに、いきなりとんでもない発言)。

 ただし、一つだけ弁護するとすれば、インスタント・コーヒー(極陰性の酸性)と異なり、ちゃんと豆から入れたコーヒーは、極陰性ですがアルカリ性が強く、肉類等(極陰性の酸性)の食品の毒消しという意味では効果がある。明治に欧米の肉食文化と共にコーヒーも入ってきた事を見ても、欧米化食生活の必需品のようである。そういう意味では、現代人にとっては必要悪という存在と考えてもいい。逆に言うと、国産品に絞って玄米菜食等を行っている人には、まるっきり必要無いので、コーヒーはキレイサッパリやめよう。

 そもそも、日本に無かったはずの食べ物、飲み物、加工・料理方法等はすべて日本人にとってはシコウヒンのようなものだから、ほどほどに上手に付き合うのが良いみたいである。

 とは言いつつ、コーヒーはやっぱり大好きで、なかなか…。

 今日、三杯目のブラック・コーヒーを飲み終えたところで、オ・シ・マ・イ。 【カズ】

 

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