「隠居しよっかなー」と思った件について① ~望む環境に自分を閉じ込める

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大原扁理さんの「20代で隠居」を読んで、久々に心がふっと軽くなった。
(自分がモヤモヤと考えていることを言語化してくれる人・本に出会うとラクになる)

私の「~しようかな」はとても移り気だから断言はできないけど(笑)、この本に出てくる「隠居」というのは私が実践していきたいと考え出していたことに近いのでイメージが鮮明になった。

隠居と言っても、人里離れた山の中に誰とも関わらず一人で生きていくわけでもないし、仕事をリタイアするわけでもない(この本においても、著者は一応東京に住んでいて、ちょっとは仕事もしているし、なんといっても20代!)

そもそも、私の中の思い込みというか、ずっと根強くあった憧れや理想として、

「人脈がたくさんある人はすごい」とか、

「色んなカテゴリー(仕事、遊び、仕事のような遊び、遊びのような仕事など)の予定で手帳がびっしりの人はかっこいい」とか、

「恐れず自分の主張をどこでも言える人はすごい」

という思いがあり、またそんな自分になれたらカッコいいと思う反面、なんだかそういうこと(社会にどんどん出て行ってアクティブに活動し多くの人と関わること)はどんどん億劫で面倒になっていっている。

誰かとうわべ以上の関係をつくるには、福島原発事故以降、家族や、家族の体に起きたこととか、それから自分が大事にしている(まるで自分だけが大事にしているような感覚になる)こととか、いちいち言語化して伝えなければならなくて、それを、私はものすごくしんどく感じている(きっとしんどく感じるのは私がひとの反応を恐れすぎるからなんだけど)。

私はそもそも、大勢の友人より、ごく数人の「だいたいのことを知ってくれている人」がいればいいと思うタイプだし、一人の時間が大好きだし。

いちいち言葉にするより、見ればわかるでしょ、ってくらい行動で表せばいいんじゃないかって、今年から思い始めて。

自分の大事にしたいことを守るためにも、たいていは絶対必要なわけじゃないし、強くもない繋がりを宙に浮かせといて(繋がりを断つとかっていうよりは、「隠居」すると自然と「繋がり」は宙に浮いて、それからどこかに流されていくんじゃないかと思う)、自分の望む環境に、ゆるく自分を閉じ込める。望む環境とは私の場合、日々の食糧を自分で作れる、狭くても汚染の無い土のある場所だ。

別にそこから出ないわけではないし、出稼ぎ(バイトのこと)にだって行くけど、時には飲みにだって行くけど、毎日お世話が必要な畑からはそうそう離れられないし、ぷち隠居せざるを得ない(でも専業農家さんにとってはそれが本業だからもちろんそういう生活=隠居なわけではないのだけど。今までの私の生活から見ると、隠居である)。

そもそも、人に口で伝えるのが億劫になってたけど、別に「行動で伝えよう!」と意気込む必要もなくて、ただ自分がこうありたいと思う生活を黙々とやればいいのである。

今年は畑を学ぶとか何とか言って、結局週に何回もは実家の畑に行けなかった。その結果、行くたびにそのとき手が足りていない作業や急ぎの作業を優先的に手伝って、全体を見通すという事はほとんどできなかったし、自分で植えた種の結果すら見届けられなかったものもある。

来年の春からはもっと黙々とやりたい。毎日作物の顔を見て、小さな変化を見つけられるようになりたい。今年以上に、季節の移り変わりを、自然の表情の変化を見届けたい。

だから、やっぱり、旭川の生活(しかも限りなく中心部!)は便利だけど、、、
隠居するしかない。うん。そろそろ覚悟を決めよう。


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