道草閑談第1号 -弟が生まれた満月の夜と、ほぼ私と同い年の両親の若さ-

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たいへんご無沙汰です。私の生活は、仕事も考え方も環境も、数ヵ月単位でコロコロと変わっていきます。最後に書いた時からきっとまた変わっています。

このブログタイトルにある、「道草閑談」とは? 第1号とありますが、お察しの通り、通信なわけですが、私が書いたものではありません。1993年4月から、数年にわたり両親が綴ってはコーヒーのお客さんなんかに配っていた、家族の「極めて個人的な出来事」の記録で、「支離滅裂にして不可解なる『個人的時事通信劇場』」らしいです。父の文章によると。A3両面。最初はワープロで書いてたのかな。

ハイフンで囲まれた副題は私が勝手につけました。ざっくりと、私の目線から(私の目線なのでさぞ低い位置であることでしょう、何も見えてないことでしょう…汗)

これは私が生まれてちょっとしたころ、23年ほど前の記録です。当時の私たち家族を知らない人にとっては面白くもなんともないと思います。けれど、素朴な暮らしと子育てと畑仕事の中で両親が感じたことと、それを読んで私が感じたことを、なんとなく公開してみたいと思ったので、今日から「道草閑談ふりかえりシリーズ」をはじめます。公開は、家族に差し支えない範囲で行います。興味があれば読んでみてくださいな。それでははじまりはじまり~

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  道草閑談 第1号 199341日発行 

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■満月山の春の音

-「蕗」誕生の夜-
 この通信の基本的形態として、一面の(今のところ二面しかありませんが…)トップ記事には必ず、我が「伊藤家」の極めて個人的な出来事を掲載いたします。WANDERLUSTのメンバーは、和久(通称カズ)、加緒子(同カオコ)、蛍(同ホタチャン)、そして一か月前(三月七日)に誕生した蕗(ふき…通称は未定)です。これら誰かがこの記事を書き、毎号それぞれの立場で勝手に物語が進みますので、支離滅裂にして不可解なる「個人的時事通信劇場」として、どうかご了解ください.
 
 旭川市江丹別にある我が家の玄関を出ると、真正面に二等辺三角形の小高い山がある。この山を僕達は「満月山」と呼んでいる。(旭川市が管理する山で、実際の名は知らない)その名の通り満月の時、月はその山のてっぺんから顔を出す。
 一九九三年三月七日は夕方から快晴となり、空を真っ赤に染めながら陽が沈んだ。それと入れ替わるように満月山のてっぺんから月例十四日目を迎えた満月が姿を現した。街灯もろくにない山合いの中だから、満月の光は威容なほどの力を持ち、星々はほとんどその光にかき消され、地上の雪が反射によってそれを助け、村は広間のような明るさになる。
 仕事を終えた僕は玄関前でつい立ち止まり、しばらく満月に見惚れた。玄関に入り、長靴も脱がないまま加緒子と蛍を呼び、二人を連れて再び外に出た。三月三日の桃の節句が過ぎたばかりの蛍は素晴らしい光を見て、開口一番「オシナサマだ」と叫ぶ。「お月様」と「お雛様」の発音の区別がつかなくても、ちゃんと月がそこにあることを理解している子供の面白さだ。明日の八日に予定日を控え、臨月のお腹を抱えた加緒子と僕は何となく「…今晩生まれるのかなぁ」と言った。
 それが午後六時三十分。そろそろお腹が張ってきていた加緒子は、もう八十才になる助産婦の熊谷先生に電話でその事を告げた。「それなら明日の朝、生まれるかも知れないから三人で泊まりにいらっしゃいな。」という一言を言ってくれた先生に後で大変な感謝をする事になる。
 「それじゃ、申しわけございませんが、夕飯を食べたら三人でお伺いします。」と先生に伝え、僕たちは丸いちゃぶ台を囲んだ。雑談の中、ゆっくりとした夕食を終え、お茶を飲み、家を出たのは午後七時五十分。
 助産所(先生の自宅)までの道のりは約二十五キロ。そのうち約二十キロは一度も信号がない道だが、結構曲がりくねっていて、普通に車で走っても先生のところまで四十分はかかる。道内でも指折の豪雪厳寒地帯で「陣痛の時に吹雪いていたらどうしよう。」と心配していたのだけれど、そんな不安が馬鹿馬鹿しくなる程の良い天気だった。
 昼のように明るい道を奇跡が起きた時のように喜びながら、「ぞうさん」とか「七つの子」「さっちゃん」「お時計さん」など、童謡の大合唱をしながら市街地へ向かう。その間、少し車に揺られたせいか、加緒子は軽い(…と思うのは、一生その痛みの分からない男の勝手だが)陣痛らしき痛みを訴え始めた。
 何事もなく助産所に着いたのが午後八時三十分。玄関前に車を停めて、まず加緒子が一人で降りた。先生がすぐ出てきて「伊藤さん、大丈夫ですか?」と聞いてくれた。八十の高齢を疑わせるような、いつもの先生の勢いと大音声に、加緒子はちょっと笑いながら「大丈夫です。三人で押しかけたりしてすみません…。」等々、ひとしきり挨拶した後に、先生と一緒に屋内に入った。
 ホタルもちょうど二年前(一九九一年二月二十七日)、この屋根の下で誕生した。その時の先生の姿が僕の中で重なり、ふと「全然変わってないなぁ…」と思った。助産所には駐車場がないので、やはり二年前と同じように、向いのボーリング場の駐車場に違反駐車をしに行く。あの時と違うのは、後部座席でニヤニヤと歌を歌っている蛍がいる事だ。
 蛍を抱え、道路を渡って助産所の玄関に戻ったのが午後八時四十分。ガラガラと横開きのドアを開けると、高齢の為、既に背中が曲がってしまった先生が頭を突き出すように廊下を走ってきて「伊藤さん。立ち会うのなら早く来なさい。生まれてしまうじゃないですか」と僕に言った。蛍を抱えながら目が点になった僕は「ハァ?」と言いながらも、取り合えず先生にひっぱられるようにして診察室に入った。診察室は分娩室と兼用になっていて何のことは無い、きれいなシーツが被せてあるベッドがあるだけだ。あとは普通の民家と何も変わらない。先生も割烹着を着ているだけで、外見上「先生」として見える部分は、密着性のゴム手袋をしている事ぐらいだ。それよりも数十年かけて身についたのであろう、「産まれる」と判断した時の迫力が、何よりも「先生」だった。
 その白いベッドの上で、加緒子がすでに陣痛に身をゆだねていた。笑いながら先生と診察室に入って行ってからまだ十数分しか経っていない。慌てて僕は左手で蛍を抱き、右手で加緒子の右手を握っていた。「はい、いきんで」「はい、いきまないで」「もうすぐですよ」という先生の声が飛びかい、加緒子が叫ぶ。蛍は知ってか知らずか、「加緒子、ガンバレ、加緒子、ガンバレ」を繰り返す。この点、蛍の方がいやに落ち着いている。助産所のこのベッドに加緒子が横たわって二十数分後、赤ん坊の声がこの部屋いっぱいに響き渡った。3人で月見をしてから、わずか二時間半後の出来事である。
 一九九三年三月七日、午後八時五十六分。快晴。満月。その瞬間に、確かに僕らは四人になり、蛍はお姉さんになった。この子の名は加緒子がつけた。「草」の「路」と書いて「蕗(フキ)」と言う。この蕗が誕生した瞬間から、蛍の心に葛藤が生まれ、精神的成長が始まる。 【カズ】
 

『満月山の春の音』

          詩・曲 KAZU
いつものせせらぎの音
フワリと満月山
名残りの雪山乗り越えて
春に出逢う夢を見た
ひと冬眠った子供たちの
寝呆けた顔がふりかえる
そんな朝を迎えた僕の瞳に
一輪の黄色い花 Fuu
 ※ちっちゃな蕗のトウ
  福寿草と背比べしてる
  あたたかな土の上
  やがて一面のカタクリの花
 
いつもの雪解けの音
ポカリと満月山
はじめて歌う小鳥の声に
生命に出逢う夢を見る
ひと冬眠った子供たちの
ヒソヒソ話がはじまると
僕らの暮らすこの里にも
人のざわめきがかえって来る Fuu
 ※繰り返し
やがて一面のカタクリの花
やがて広がる草の道

 

チェルノブイリ原子力発電所四号炉の事故
 
 チェルノブイリ原子力発電所四号炉とは、旧ソ連ウクライナ共和国で七年前(一九八六年四月二十六日)に大事故を起こした、出力百万キロワットの黒鉛減速軽水冷却沸騰水型原発
 放出した放射能量は数億キュリー以上と言われる。百万キロワット級の原発一基が一年稼働するとヒロシマ原爆のおよそ一千発分の放射能が炉心に出来上がると言うから、それにほぼ匹敵する放射能がこの事故によって世界中にバラまかれた。この放射能量は単純に人体が一律に内部被曝したとすると、五百兆人分の年間摂取限度量に相当し、世界人口五十億人として、その十万倍という計算になる。
 この事故の二次災害として、放射能による食品汚染が深刻な問題を引き起こしており、特に濃度の高い放射能が降ったウクライナ共和国近隣地域と東欧、北欧地域では、現在も生態系に重大な影響をもたらし続けている。
 


WANDERLUSTについて


 WANDERLUSTという単語は直訳で「旅好き・放浪癖」という意味です。WANDERは「歩き回る・放浪する」などを意味する動詞で、LUSTは「望み・渇望」を意味する名詞です。WANDERLUSTには他に「迷子になる」とか「横道に逸れる・脱線する」等の意味があって、私たちの想い描くWANDERLUSTは、むしろその
「脱線」を「望む」という意があります。それはべつに、社会から脱線する「アウトサイダー」を目指すという事ではなく、あえて「道草」を喰って暮らしてみようかな、といったイメージから生まれたものです。
 学生の頃、私たちはほとんどの同世代の者と同じように、社会、あるいは経済と呼ばれるものの中に押し流されるように巻き込まれつつある自分に戸惑い、悩みました。何をしたら良いかも判らず、何を目指すべきかも判らず、日常に流されていく中で、その「何か」を探すために二人で旅に出ました。夏休みを利用したわずか四十日間の北海道から九州南端までの、日本中をフラフラする旅でした。ボロボロの車に寝泊まりしながらの旅で…その頃からコーヒーが好きだった私達は、その旅に小さい鍋型をしたコーヒーを焼く網を持っていきました。道端でカセットコンロの火を使ってコーヒーを煎り、手挽きのミルで挽いてコーヒーを入れ、行きかう車の流れを眺めながら飲む…そんな馬鹿馬鹿しい行為が妙に嬉しかった。
 その旅を分岐点に、大学生という限られた枠とは違った出会いが始まり、相変わらず時代に押し流されつつも、原子力発電の問題等との関わりが生まれました。巨大技術への反抗心の表現…コーヒー好きだった私達が、偶然思いついたのが「手動回転式のコーヒーを煎る窯」でした。決して壊れることのない物を作りたくて…その時も現在も車を使って暮らしているのに、安い電気を使ってモーターを回すというただそれだけの事に反抗する若さ。モーターを自転車用のベアリングに置き換えて手で回すという、実にくだらないことを思いついたわけです。
 その窯も今年で四年目。手間と時間ばかりかかる窯で、しかも納屋に置いてあるものだから室温は夏は三十度、冬はマイナス三十度の外気とほぼ同じで、その日の天候に左右されるというとんでもない窯です。…が、現在まで故障は無く、メンテナンスといえば、ベアリングにミシンオイルをさす事と、サビないようにヤスリをかけ、耐熱塗料を時々塗り替えてやるだけなのですからカワイイものです。ゆっくりと手で窯を回すという作業が大部分なので、その間は手を動かしながら(根気よく?)ぼさっと五時間も六時間も座っているしかないのですがその代わり色んな事を想像したり考えたりする時間でもあります。
 今年の始め、コーヒーのお客様でもある、長野のある友人から便りが届きました。その中に「(略)…でも不思議な事に、時間というものは今、科学で説明されているそれとは違った回り方をしていると今も信じています。時間のかかる事をすれば、時間はゆっくり回ってくれるのです。ささくさとスピーディーな事をすると、時間は大急ぎで回り始めるのです。自家用車とやらでビューンと行くと早く着けるけど時間も早く回ります。自らの足でゆっくり行くと早く着けないけれど、時間はゆっくり過ぎていきます。急いでやった分、どこに余りの時間が訪れるのでしょう…」という一説がありました。手間のかかる回りくどい、例えば手編みとか石臼で粉を挽くとかいう作業は、社会や経済にとっては至極「無駄」な事なのかもしれませんが、自分と直面し、自己を認識するという、日常に置き忘れてきたものを取り戻せる貴重な瞬間かも知れない。そんなWANDERならいいなぁ、そういう道草なら喰い続けちゃおうかなぁ、と思ったりする今日この頃です。
 六年前(一九八七年)、日本中を走ったその車の背に「WANDERLUST」という文字が書いてあって、二人の子供(蛍・蕗)ができた今もその言葉を背負って暮らしています。ハタチの夏に二人で旅に出て以来、未だに帰り着くべき所に辿り着く箏のできない「WANDER」です。【カズ】