アイデンティティ 映画「LION 25年目のただいま」を観て

 

記事タイトルにある「LION 25年目のただいま」は、5歳でインドで迷子になった少年サルーが大人になり、Google Earthを頼りに故郷と生き別れた家族を探し出す…という物語。

 

サルーの記憶にあるインドの小さな村での暮らしは貧しかったが、迷子になったのち幸運にも引き取ってくれたオーストラリアの家族のもとでの暮らしは何不自由なく、里親には限りない愛情を注いでもらってきた。けれど今も母親と兄が悲痛な思いで自分を探しているのだという感覚が、サルーにとって、「今ここ」に生きているのだという実感をもたらしてはくれない…。大学に進学し、様々な国籍の同級生に自分の出自を尋ねられ戸惑うサルーが、私にはそのように映った。

 

自分の根幹が定まらず、はっきりしない――そういう感覚が、かすかにでも胸の内にある時、何を選んでも、どこにいても、誰と笑っていても、心は虚ろで、今を生きている実感がわかないのではないかと思う。

 

私はなぜだろう、いつも、つかんだ!と思ったものは実は弱く、もろく、わずかな時間で手の中から抜け落ちていった。きっと、つかんだものを、強くする努力が、私にも必要だったのだろう。けれど私の弱さが、勇気のなさが、いつもいつも、「やっぱり違う」と思わせてきた。つかんだと思ったものを右手に、堂々と戦い抜くことが、いつもできなかった。そうしてとうとう、ここまできてしまった。

 

私は来年の今頃は、ここにはいないかもしれない。

 

 

10年の「空っぽ」

 

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 

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2か月ぶりの丸1日の休みで、遅い朝ごはんというかお昼ご飯のおしることお雑煮を食べた後、短い散歩に出た。元旦に雪が降らないのは、何年ぶりかというほど久しぶりな気がした。快晴ではないけれど青空が見えて、鳥のさえずりもほとんど聞こえない、静寂の朝。

 

私はいつも自分の心のままに、わがまますぎるほどに正直に生きていると思っていた。親も私の選ぶ道に干渉しない。自分の心に逆らえないから、ストレスだってそんなにない。心身ともに比較的健やかに、自由に生きていると。

 

でも何度も浮かんでは打ち消して目を逸らしていたのが、自分は空っぽだということ。

音楽も聞かずに、静かな雪景色の中を歩きながら、私は、一体いつから「空っぽ」を抱えるようになったんだろうと考えた。

「空っぽ」のカケラはたぶん幼少期からあった。でもその「空っぽ」がくっきりと目の前に立ち上がり、それに圧倒されて打ちのめされたのは、高校3年生の、生徒会執行部として向き合った学校祭が終わってしまったときだった。

その時は、全精力を傾けて、執行部と協力して大役を終えたことに対する、ただの燃え尽き症候群だと思っていた。でも私のいた高校は進学校で、学校祭が終えた後は受験勉強のラストスパートの始まりだった。私はそこで無我夢中になれる程の(進学先の)「選択」ができず、大学以降でやりたいことを何もはっきりできないままここまで来た。10年もの間どうやら、「空っぽ」を連れ歩いてきてしまったようだ。

 

むろん、やりたいことがはっきりしていなければ価値がない人生とは決まっていないし、坂爪圭吾さん的に言えば「生きているだけ」で全く問題ないのだし、そういう人がみんな「空っぽ」を抱えているわけじゃないと思う。

でもたぶん、「空っぽ」を持っている人は、常にそこに何かを詰め込もうするんだと思う。何か夢中になれるものや新しい趣味をそこに入れれば「空っぽ」は埋まるんじゃないかと。私の場合はその時々にいた恋人であったり、自己啓発本を読みあさることだったり、原発問題だったり、迷える弟たちを支えることだったり、「この大変な時代を生き抜こう」的なスローガンだったりしたんだと思う。でも結局どれも心の底から納得できず、自分のものにしきれなかったニセモノで、空っぽは埋まることなかった。

 

そしてついには、この10年抱いた中で一番大きな「希望」になり得たものを、私は去年の2月に失い(それは”開いたばかりの花が散る”かのようだった*)、「空っぽ」を抱えながらも私の根底にずっと流れ続けていた血であり骨であった価値観までもが疑わしいものになり、信じることができなくなった。

 

私が唯一色々な本音を話すことのできる、年上の友人に言われた言葉が頭から離れない。

 

 

”親のマインドコントロールは解けたかい?”

 

 

*宇多田ヒカル桜流し」の歌詞より

頼ってごめんね

 

私は音楽を聴いたり歌うのが大好きで、パソコンで、スマホで、車で、Bluetoothスピーカーで、ほんとにたくさんの曲を聞いたり歌ったりしているのだけど、

 

突然、ギターをやってみようと思い立った。

 

なんだろう。MP3を再生してくれる機械がなくても、MP3ファイルを持っていなくても(何らかの理由で失ってしまっても)、好きな音楽を聴ける、奏でられるようになりたいと思ったんだよね。

 

それに、心からいい曲だと思える曲を、自分のテンポで、自分の加減で、ギターとともに歌えたならきっと気持ちいだろうなとも思って。

 

でもね。でもね。

 

父親が20代のころからギターをやっているので(譜は読めないらしい)、比較的小さいギターを借りてちょっとコードを押さえてみようと思ったら、全然押さえられない…

小学生の時にピアノを1年くらいでやめてしまったけど、上から鍵盤を押さえる方が、ギターの弦を一本一本、または何本もまとめて押さえるより簡単だったんじゃないか…と思ってしまったくらい(少なくとも「押さえる」だけなら)。

なんでギター弾ける人ってあんなに自由自在に、複雑に指を動かせるの? 他の弦に触れずに一本だけ抑えることができるの?

 

基本的なコードも押さえられないようじゃなかなか道は困難そうだけど、早くも参っているけども…まあ、誰に急かされてるわけでもないし、大好きな音楽なのだから、なるべく諦めずにやってみようと思う…まずは「きらきら星」から…笑

 

 

あなたはいつだって 私のそばにいる

目に見えぬ力で 心を震わせる

いつかまた きっとまた めぐり会う時まで

少しだけのさよなら

          by 山下達郎「REBORN」

 

 

ギターが手に馴染むようになって

何曲かでも弾けるようになったら

自分で音楽を奏でることに没頭できたなら

それが私を癒してくれるような気がして

忘れられるような気がして

 

 

REBORN

REBORN

 

 

ストレンジャー

ストレンジャー」「Stranger」という言葉で連想するものはある?

 

私の場合は、ビリー・ジョエルのアルバムであり楽曲「Stranger」。

それから、大好きな映画「Closer」の中でアリスがダンに出逢ったときに言うセリフ「Hello, Stranger(ハイ、見知らぬあなた)」。

 

この映画は、4人の男女が出会い、裏切り、別れ、ヨリを戻し、信頼を失い…を繰り返す、男女の愚かさや悲しさ、したたかさや強さを描いた作品だ。人によっては、不誠実でバカな男女がひたすら不誠実な行いを繰り返す、見てて気分の悪くなる映画でしかないかもしれないけれど、私には男女の正直な姿をリアルに描いたすばらしい作品だと思う。無駄がなく、印象的なセリフの多い脚本も本当にすばらしい。華やかで実力もある4人の俳優たちは、男女の微妙な感情を、目で語る。真実は、行動や言葉だけが示すわけではないということを静かに語りかけてくる。

もし映画に自分自身を自己紹介してもらうなら、私は間違いなくそのひとつにこの映画を選ぶだろう。

 

こちらはその主題歌、ダミアン・ライスの「The Blower's Daughter」の歌詞の和訳。映画の中の日本語字幕を引用させてもらう。

 

とても不思議…

すべての物事が動いている

君の言ったように

人生は何事もなく過ぎ去っていく

一日… また一日…

 

とても不思議…

物語はとても短くて

愛もなく心ときめく輝きもない

彼女が見上げる空に英雄はいない

 

なのに僕の目は君に釘付け

僕の目は君に釘付け

 

とても不思議

君の言ったように 物事は動いている

僕らは優しいそよ風を感じなくなる

 一日…また一日

 

考えるのは君のことばかり

考えるのは君のことばかり

 

What I want to tell you

いつからか私は道を間違えて

ずっと誤った方向に進んでいる自分を

未だ止められないんだけど

 

そんな生活の中でふと湧きあがるいろんな想いを

伝えたいと思うのは、あなただけ

 

この世界の美しさ、醜さ。

黒と白だけではないこと。

 

あなたとなら共有できただろうと

途方もない夢を見そうになる

 

愛は この愛は あなたにも言わない

会いたいな 会えないな

今そっと手放すよ

 

花の名前を知るとき あなたはいない

会いたいな 泣きたいな

でも全部抱きしめて

生きてくの

        「愛のゆくえ」byきのこ帝国

 

楽しみなことが終わったら

私って極端なのかもしれないけれど

すごーく楽しみなことが数カ月先にあって

それが終わってしまったら

その先はどうやって生きていこう

何を楽しみに生きればいいんだろうと思ってしまう

 

刹那的に生きるってこういうこと?

いや違うか

 

人生を通して大事にするもの

目指すもの

それがないからこんなふうに思うんだろうね

 

「楽しむこと」とか、ただ「生きること」

とかすらも、私は願っていない。少なくとも今は。

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自分のこと

 

私はいつでも、自分のことは一番わかっているつもりでいたけれど、自分のことについて、最近になって初めて認識したことがある。

私は一人が好きだけれど、その反面、「家族生活」というものをすごく求めていたということだ。

 

福島原発事故が起きて、家族に様々なことが起き、母とかわいがっていた双子の弟が石垣島に移住してから、私にとって母と弟たちが元気に幸せな毎日を送ってくれることが最重要事項となった。学校に通うことができなかったり、就職がうまくいかなかったりと、一般的なルートをたどることにはつまづいてきた弟たちの、生活というよりは精神面を私はいつも心配していて、「家族」というものについて、私はいつも弟にばかり気を取られていた。

 

でも最近は、弟たちがそのつまづきを乗り越えつつあり、心配させられることも少なくなった。それで私はハタと気がついた。私は最愛の弟たちの存在を隠れ蓑に、自分自身に目を向けることを避けていたのだと。本当は、大学に入って初めて一人暮らししたときとなにも変わっていない。私は、家に帰れば両親と弟たちがいて、一緒にあたたかい食卓を囲む。そんな「家族生活」というものに未だ憧れているのだと。

 

そして、弟たちを助けてあげなければという思いから少しずつ解放されつつある今、結局私は自分自身がどうしたいのかは、未だぜんぜんわからないのだということも。

このブログにも、石垣島プチ移住日記をたくさん掲載しているけど、あのプチ移住が終わる頃も、同じことを書いていた。弟のことだけでなく、自分自身のことを考えなければと。私はそのころからなにも進歩していなかったんだな。

 

この国から原発をなくしたいとか、場所に縛られない働き方をしたいとか、今まで「これが私のやるべきことだ!」と思ってきたことはことごとく弟のためで、何ものも前提としない私自身がどう生きたいかは、ぜんぜんわからない。

 

強いていえば、「仕事を生活にしたい」「生活がそのまま仕事になるように生きたい」という思いはある。だけどその前提には、「健康に生き延びたい」という想いがなければいけないんだけれど、それが、やっぱりまだ、取り戻せない。

 

あのときのように、まっしろい季節がやってきて、あと数ヶ月で、1年になるのにね。

 

わかっているよ。私が前に進めないのはあなたのせいじゃない。全部あなたのせいにして、強くなることから逃げているだけなんだ。

 

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今年の初薪ストーブの火

 

asahana.hatenadiary.com