やさいに懺悔

 

最近、「暮らし上手の○○」というシリーズの本を図書館で借りてずっと読んでいる。

たとえば、

・暮らし上手のワードローブ

・暮らし上手のお弁当

・暮らし上手のパンとスープ

・暮らし上手のおうちごはん

などなど。おもに料理のレシピばかり熟読しているのだけど、とにかく「野菜にそんな取り合わせもありなのね!」「これは試したい!」と思わせるものが多い工夫にあふれたアイディアが満載のシリーズで、とても楽しいのだ。手帳代わりに使っているノートに、レシピのメモがどんどんたまっていく。

 

一方、畑ではだんだんと野菜が育ち始めている。すでに収穫しているのは菜っぱ類と成長の早いカブくらいだが、もうすぐなのは、キュウリやエンドウ。そして待ち遠しいトマトやナス、シソ、ピーマン、ササギ、カボチャ、枝豆、ニンジン、トウモロコシ…と続いていく。

 

とうとう仕事をひとつに絞って、1日のほとんどを家や畑で過ごしているので、人生でたぶんもっとも、料理をする時間ができた今、日々野菜たちに詫び悔いている。

「今まで、いっつもおんなじ食べ方ばかりで、君たちの良さを活かしきれていなくてすまなかったね…(:_;)」

「今年はもっと大事に食べるからね…だから早く大きくおなり」←そこかい

 

これは今日のお昼につくったカブとまびきダイコンとミズナのサラダ~

ボウルの水滴ぐらい拭きなさいよってね。

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芽生え

うちの畑にも春がずんずん。

カラフルな花をつけずとも、ひとつひとつ、とても愛らしいのです。

今年もはじまるのね。みんな命を謳歌するのね。

そんなふうに生きれたらね。

 

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あなたに聞いたなら、あの木は何の木か、教えてくれるのかな。

あの人は気が付いていたのかも 『Tiny Dancer』 by Chara『Sympathy』

「きっとバレてないはず」と思ったことは、「いや、きっとバレてる」と思いなおすようにしている。

あの同僚も、あの友達も、父親も、もう会えない遠くのあの人も。

ずる賢いはずの私のいやしい気持ちも、本当の欲望も、きっとバレてる。

 

そう考えれば、ずるく立ち回る自分の愚かさを、卑怯さを認めて、もっと謙虚になれる。隠し通したつもりのあの人は、少なくとも私より賢いはずだもの。

 

Charaの『Tiny Dancer』と、収録されているアルバム『Sympathy』が本当にすばらしい。どこまでも清々しいほどに明るく切ない。

 

私が置いていく物は

小さな態度

心を揺らしてしまえ

置いてきたわ

あなたへの気持ち

 

傷つく事を 曖昧にして

全て残さず踊りきったダンサーみたいに

あなたは想い出にしていくの

 

あの人は気が付いていたのかも

愛した事は真実

あの人は気が付いていたのかも

愛した事は真実

あの人は気が付いていたのかも

愛した事は真実

      from 『Tiny Dancer』 by Chara『Sympathy』

 

どんな思想が、価値観が、育った環境が、真実を覆い隠そうとしても

きっと気が付いているよね

愛した事は真実

 

部屋に世界地図をはってみると

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昨日、折りたたまれている状態で売っていた一枚の(本の形ではない)世界地図を買ってきた。サイズで言うとA0かな。

 

パソコンや本棚のある机のすぐ右横の壁に貼る。世界地図って、なんでこう、ずっと見ていられるんだろう。

 

買ってよかった。ほんとによかった。A4より小さいサイズに折りたたまれた地図を広げて、最初に眺めた時に、頭に浮かんでは消えた思いや考えを、せっかくだから箇条書きしてみようと思う。

 

・日本ってこんなに頭でっかちなカタチなのか!(本州を胴体、北海道を頭とすると、頭、でかい!)

・来年は九州を巡ろうと思っていたけど、北海道に比べりゃ、ナンダ小さい小さい!余裕余裕!笑

石垣島と台湾は見事に緯度が同じ。

・映画「Into The Wild」の原作「荒野へ」(ジョン・クラカワー)を読んでいるので、どうしても目はアラスカのフェアバンクスへ向く。

ニュージーランドってインドネシアあたりにあると思ってた…意外と寒そう

ブエノスアイレスってロシアの都市だと思ってた(響き的に)

・カナダの北東側は大きな島がたくさんあるけど、グリーンランドと同じ緯度だし永久凍土なのかなあ

・アメリカもカナダもロシアも、こんなに大きな大陸をどうやって統治・管理してるんだろう…

・青森とニューヨークの緯度がほぼ同じなんや!

・日本って、ほんとうに、ちいさくって、危うい位置にあるんだなあ…(日本を中心に描いた世界地図だからそう感じるのかもしれないけど。ヨーロッパやアメリカから見たら日本は世界の端っこ?)

 

今まで、世界に対して興味が薄かったから、だいたい無知からくる驚きばっかりなんだけど。

やっぱり一番驚きなのは、「私が、世界地図を見て、行ってみたくてウズウズしてること」!

つい数か月前までは考えられなかったことなのだ。

世界に目を向けている人は、たとえ親が旅行好きじゃなくても、自分の力で10代や20代前半から海外に行っているわけで、出遅れたかのような焦りはあるにはあるんだけど、実際は「そんなのかんけーねー!」わけで。

やっと興味を持てた今がスタート。自分にそう言い聞かせて、世界一周や海外旅行の紀行などを読みながら、旅立つはずの来年に向けて、モチベーションを高めるのである!

 

北海道を旅立つときは、この地図を再び折りたたんで持って行きたい。

 

自分だけの「語る言葉」を持ちたい

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今年に入って、私が3つの仕事のうち2つをやめて、農作業や日々の生活に集中する時間を作ったり、冬になったら北海道を出て色んな土地で暮らしてみたいのは、一言で言うと、「語る言葉」を持ちたいからなんだと思う。

 

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映画『ビリー・リンの永遠の1日』~永遠に戻れない日

「永遠の1日」って、永遠のように感じる1日って意味じゃなくって、「永遠にすべてがひっくり返ってしまって元には戻らない日」のことだと思う。

30年弱しか生きていない私にすら、そんな1日は存在する。きっと多くの人が、「その日」を思い浮かべられるのではないだろうか。

 

ビリー・リンにとってはそれが、たった19歳で経験したイラク戦争の戦場で、慕っていた先輩兵士を失った戦闘の日だった。けれども、戦場と遠く離れた母国アメリカは、危険を顧みず先輩兵士を助けに行った彼の勇姿をたたえ、戦意高揚の象徴として彼をヒーローとして大げさに祭り上げる。世界を見る目が変わってしまう、彼にとって人生最悪の日が、母国の人々に礼賛されて、利用されて…、最も馴染み深かったはずの家族や、母国や、うまくいきそうだったガール・フレンドとも埋められない隔たりを感じて、結局彼は2週間の一時帰国ののち、戦場へと戻っていく。

 

Filmarksの中のとある方のレビューで、「国を守るために戦地へ赴いている兵士たちの居場所が戦場だけになるなんて…」と書かれてあったのが印象的だった。ビリーにとって、文字通り生きるか死ぬかの激闘と訓練を共に乗り越えた隊の仲間たちが唯一、理解しあえる相手であり、戦場だけが、現実味を与えてくれる場所になってしまう。

 

この映画は、監督も俳優陣の演技も音楽も演出も脚本もタイトルまですばらしいのだけど、もっともすばらしいのは、多くのレビューでも書かれている通り、戦地を舞台に戦争の惨さや兵士たちの精神的ストレスを描くのではなく、平和な母国の日常に戻ってきた若い兵士たちに対する、薄っぺらな賛辞やエール、彼らの英雄譚を利用しようとするショービジネスに関わる人々といった外野のリアクションと、それに対する兵士たちの戸惑いや憤りを描いている点である。

 

「外野」とはつまり、戦争に行ったことのない「私たち全員」であるから、この映画を見た人は、平和な世界で些細な悩みごとに気を取られている自分を恥ずかしく思ったり、誰かがやらなければならない(とされている)ことを自分はやらずに誰かにやらせているということに思いをはせたりすることになる。この映画を真剣に見れば、決して自分も無関係に感じることはできないはずなのだ。そのように思わせることのできるこの映画の描き方が、本当にすごい。比較的抽象的な、大きなテーマを伝えるには、見る人に自分事としてとらえてもらうことが最も効果的だからだ。

 

戦地から一時帰還したビリーたちをたたえるチアガールのうちの一人と、戦地に戻るのをやめようか悩むほどに心を通わせるものの、最後の最後で、やはり彼女も自分を感動的な英雄譚のヒーローとしかとらえていない事実を突きつけられ、彼女の理想のヒーロー像に合わせて「母国を守るために戦地に戻る」と笑う彼が本当に切ない。

 

多くの人がレビューしている通り、この映画は、フットボールのハーフタイムショーに招かれた兵士たちが、「アメリカを代表するヒーロー」としてショーの演出の一部に組み込まれ(ディスティニーズ・チャイルドのパフォーマンスに合わせて行進する演出!)、目の前で打ちあがる花火の音や、叫び声に似た人々の歓声に、戦地の体験がフラッシュバック(PTSDの症状)する―つまり現実のショーと、回想が交錯するように描かれているのも、臨場感たっぷりですばらしい。

 

レンタルしたDVDの特典では、監督やキャストがより明確に登場人物の心情などを語っていて、映画を見終わった後に特典を見てもう一度泣いてしまった。私には、ビリーと、彼を必死で戦場に戻らせまいとするビリーと仲の良い姉の関係が、特別響くものがあった。弟が、苦しみ悩みぬいた末、自分の判断で「戦場に戻る」と決めたなら、私はビリーの姉のように、「あなたを誇りに思う」と送り出せるだろうか―。

 

実感しなければ、自分事にならなければ、何も語れない。最近強くそう思う私にとって、身近ではないはずの戦争や、そこで役割を果たす兵士のことを、今までよりは現実味をもって思いを寄せることができるようになった、とても大事な映画になった。ぜひ、たくさんの人に見てほしい。

 

 

桜は「春の訪れ」なんかじゃない

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ツイッターの中が桜の写真でにぎわっている。

テレビでも、代々木公園にお花見をしに来た人たちの姿を映したりしていて、世間はすっかり春の訪れを祝っている。それもとても華やかに、晴れ晴れしく、盛大に。

 

けれど…北海道の春は遅い。

今桜の開花を喜んでいる人たちよりも長いこと冬を耐えてきた。しかも気温は氷点下20度台に達するほどの厳しい冬だ。

今年は北海道すらも春の訪れがいつもより早めとはいえ、田んぼにも畑にも、まだまだ重たい雪が1m近く残っている。

朝方は未だ時々氷点下になり、アスファルトに流れ出た雪解け水が凍っていたりする。

 

そんな北海道の私たちが、やっと感じる春はとてもつつましやかで、じれったいほど控えめで、のんびりしている。

都会の人々は桜の木々を見上げて春を見つけるのかもしれないが、私たちは下を見下ろす。

雪が融けて現れたばかりの、去年の枯草の下から、ゆっくりと顔を持ち上げる、黄緑色の「春の妖精」を足元に見つける。それは、フキノトウ

 

野山で耳をすませば、融けかけた雪の下を、ちょろちょろと流れる水の音が聞こえる。

 

そして雪の面積がぐんぐん減っていき、地面が見えてくるほどに、春の野草や山菜が競うように顔を出し、花を咲かせる。福寿草ヨモギキバナノアマナ、つくし、たんぽぽ、ヤチブキ、カタクリエゾエンゴサク。そして、それらが終わったころやっと桜が咲く。その頃にはもう、5月を迎えているのだ。

 

私たちにとって桜は、春の訪れなどでは決してない。

足元の小さな生き物たちが、やさしく、控えめに教えてくれる春。まるで進んでいないかのように見えて、半歩ずつでも進んでいる、静かでのんびりとした春の、最後のおまけのようなもの。祭りの幕引きの、花火のようなものなのだ。