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道草閑談第4号 -1993年異常気象の実感と米価と百姓の話-

今日は雨模様。参院選の投票に行って、買物して、家で本を読んだりブログを書いたりしている。

私はここ最近、ませていると思われるかもしれないが「時が過ぎるのはあっという間」というのが染み込んでいて、夏至も過ぎた今、あっという間に冬が来ると感じている。夏はもうあと一カ月ほどで終わる。そして今回の道草閑談のように、秋がやってくる。収穫と、片づけと、冬の備えのための、秋が。


道草閑談 第4号 1993101日発行

 

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幻夏過ぎて…秋風と共に

 

短すぎた夏

 この夏は、ワンダーラストも八百屋も二週間休ませていただいて(ご迷惑おかけしました)、長野の友人(古俣さん)の所で三日間お世話になった後(海=二才、明=四才、空=七歳、どうもありがとう。とても楽しかったよ。)、神奈川(横浜)、宮城(仙台)とそれぞれの実家へ順に行った。ハードスケジュールでダウンしたのは他でもない、この僕で…でも今はすっかり元気です。

 

 短い夏だった。

 いつもそうなのだけれど、春に雪がほぼ解けるのが四月末。ゴールデン・ウィークには八百屋を一週間休んで畑を耕す。ジャガイモの種の植え付けとキャベツ、ハクサイ、ブロッコリーなどの苗立てから始まって、霜の下り方を見ながら、おそるおそる大根、菜っ葉類、豆類、トウキビ等の種を撒く。そして六月の末頃になると雑草との戦い。七月を過ぎれば、それも追いつかなくなって畑はジャングルのようになってくる。この頃までに作物の方が大きくなっていれば、雑草は日陰に入り、あまり大きくなれず作物の勝ちなのだけれど、去年今年のように低温が続くと雑草の方が勝ってくる。「雑草食べてる方がいいのかもなぁ。食べられる雑草は意外に多いし…」と、いつものように雑草の生命力に感嘆する時期だ。…あげくの果てに八月に里帰りなどすると(僕は宮城、加緒子は神奈川)、畑の作物がどこにあるのか分からなくなるほどの雑草が占領している。

 暑い盛りにしばらく家を空け、帰ってくるとまず畑のありさまに息を呑む。このウッソウとした畑を見る度に「畑を離れるもんじゃないなぁ」とつくづく反省する。僕たちはまだ「無肥料、無耕転栽培」などという境地には達していないから、畑に手をかける、かけない、とでは出来が極端に違う。まだまだ形だけの無農薬有機栽培だ。

 ビニールを使う栽培は好きじゃないので、畑にビニールは一切使っていない。そういう方法をとっているとナスのように寒さに弱い作物はてきめんに出来が悪い。…というより全然取れない、という事態にもなる。今年僕らが食べたナスは、長野の友人の家にお世話になった時、彼らの畑でその時ちょうど取れた一本だけだ。

 八月二十九日に我が家の畑のジャガイモを掘った。

 二軒の友人に手伝いを頼んだら、その子供と友達がゾロゾロと十人くらい来た。遊びすぎで体調を崩していた僕にとっては猫の手どころではない強力な助っ人だった。

 ジャガイモ約二百五十キロが楽しい昼食をはさんで、わずか数時間で皆の手で掘り起こされた。ジャガイモの出来だけは過去最高で、ネットに入って山積みされたジャガイモはなかなか壮観だった。

 その後もライ麦の収穫が待っていたけど、天気が良くないといけない為、僕が仕事に出ている間に晴れが続いたせいもあって、ほとんど加緒子がライ麦を刈った。こちらはまだ干している状態で、初めて作ったという事もあって一体何キロあるのか見当もつかない。

 

 九月に入ってから、やっとボツボツと枝豆が取れ始めた。わずかな量を抜いてきては、ビールのつまみにする。この取れたての枝豆の味に魅せられて畑を始めたようなものだが、天候不順のために収穫は激減。トマトも今頃になって本格的に赤くなってきたが、熟すのに日数がかかりすぎたせいもあり、皮が少し硬い。トウキビ(八列の原種)はまだ食べられるところまでいっていない。このトウキビは、もぎたてをゆでて食べると何ともこたえられない味。とても残念だけれど、わずかに出来たものだけでもしっかり味わって食べることにしよう。

 まだまだ畑作業はゴッソリと残っているが、空はすでに秋晴れが広がっている。本当に短い夏だった。朝晩もめっきり寒くなった。蛍は毎日、一人で畑に歩いて行っては無造作にトマトをむしり、「ほら、また赤くなってたよ」とニコニコしながらカブリついている。足元はあまりに雑草が多いため、とても歩きにくそう。収穫の終わった所から順に雑草を倒し、来年のために畑をひっくり返しておかなければならないし、秋まきの麦の用意もしなければ…。農家の秋の収穫が終わると今度は八百屋の方の出番でもある。我が家が一年で一番バタバタと忙しくなる季節だ。

 雪が山から里に降りてくる十月末までに我が家がやっておかなければならないことに思いを巡らすと、頭がこんがらがってくるけど、気まぐれな空模様に歩調を合わせるしかない仕事ばかり…。あせっても仕方ないのに、ついセカセカと追いかけられている気持になる。そんな事をボーッと考えながら今日は、煙突をはずして煙突掃除。空を見上げながらマキ・ストーブの用意を始めた。山の向こうまで小春日和が続いている。【カズ】

 


『おきて』

       詞・曲 KAZU

僕らが… この僕が

君の時代に… そっと

手渡すものは

透きとおる 水と

汗を散らす 風と

突きぬけるような 高い 高い 青空

そこで暮らす君は

まるで神様みたいに

優しい目をしてる

優しい目をしてる

 

僕らが… この僕が

君の時代に…そっと

手渡すものは

やわらかな日差しの中で

まずしそうに微笑む

君の優しい瞳

君の優しい瞳

 


『お天気』の話

 この稿を書こうと思って椅子に座ったら、激しい雨の音が耳に触った。…で、テーマがポン!と決まった。

 近年、今年ほど天気が気になった年もない。旭川の市街地では、この間の冬、たしか僕の記憶ではマイナス二十度を一度も記録していない(間違っていたらゴメンナサイ)。旭川に来て八年目、初めての事だ。そして万民周知の通り全国的冷夏。

 冬が温かくなり、夏が寒くなる現象がここ数年、確かに起きているような気がする。なんだか冬と夏がそのうち無くなって、カタクリの花の側に座りながら、山々の紅葉を眺める…なんてことになりは…しないか。

 僕は昔から天気には詳しい!

 小学校から高校の終わりまでほとんどの期間、僕は野球の漬け物のようになっていた。その間、あんまり厳しい練習だったものだから、根性なしの僕は「雨よ降れ」と祈りながら、いつも天気予報ばかり見ていた。まわりの連中もその気持ちは似たようなもので、天気予報を聞くかわりに僕に「なぁなぁ、雨降らんか」と聞いてきた。天気図も結構研究していたから、僕の天気予報は意外によく当たって、仲間にはなかなか重宝がられた。「将来は気象庁に行くのも良いかな」などと本気で考える、おめでたいガキだった。もっともこれは練習の時間帯に降るかどうかを当てるだけだったので毒にも薬にもならない趣味で、何の役にも立たない。

 閑話休題

 今年のコメの不作は決定的だ。九月の半ばを過ぎた現在でも水田には青い稲が目立ち、穂が垂れてきていないものも多い。戦後最悪という活字がメディアの中でチラホラと舞い始めている。

 今年の場合、ある地方の部分的不作ではないし、ここ数年ずっと良くて突然ガタッと不作になったのでもない。「今年の天気は変だね」という世間話をここ何年か繰り返してきたのは僕だけだろうか。何か少しずつ変わってきて、ある飽和ラインを超え、一気に目の前に現れた…そんな気もする。

 気候変動の原因については諸説があって、地球外からの影響としては主に太陽活動の変動がある。これはまぁ…どうにもならないからオテントウサマのご機嫌に任せるとして、問題は地球内でのことだ。その主たる諸説は、火山噴火、海流異変、炭酸ガス濃度の増加、大気汚染、森林面積の減少などがある。この中で火山噴火も多分太陽活動の変動に含まれる…天災だとして除く。残りはというとほとんど人為的なものばかりだ。

 ところで人為的と言えば、「自然破壊」とか「環境問題」という言葉が頻繁に使われだして久しいが、果たして本当にこの地球上で「自然破壊」が進み、「環境問題」が起きているのだろうか。

 僕は自然というものは常にバランスを保っていると信じている。「壊れて」きたと見えるのは人間の勝手な主観だ。「自然」はただ、ある出来事が起きて、何かが増えたり減ったりしたから、それに合わせてバランスを取っているだけ…なのかも知れない。

 多くの絶滅していった動植物の種は何も語らずに静かに消えていった。自然が調和を取り続けようとする流れの中での必然の出来事なのだとすれば、その出来事は例えば僕自身に一体何を問いかけているのだろう。

 気候変動の原因を特定したところで意味があるとは思えない(まず不可能だと思うが…)し、だいたい昔から悪い事をすると災いが起きると言い伝えられているのだから、きっと僕の在り方そのものが、目の前の現象なのだと思う。…けど、神様に「畑の出来が悪いのはお前のせいだ」だとど言われたら、やっぱり閉口するほかない。

 とにかく来年の天気、神様なんとかしてください。【カズ】

 


書籍紹介コーナー『米価十倍にしなけりゃ日本はつぶれる』

《米価十倍にしないと百姓が米を取られる》

[ 日本の農民だってまず自分が食う。私はそう書いた。しかし、たらふく食えるのであれば百姓の私が無理してこんな本を書きはしなかった。いつの世でも自分の作ったものは必ず食えるのだという保証があれば、ひとりの百姓のすぎない私が、なんで日本がつぶれることや、民族の問題として日本の田んぼを心配することがあるだろう。これほどまでに田んぼをつぶし、大規模化で安い米を作らせようとし、減反をさせ、まだ高いと言い、農家の平均所得を百万円以下という状態にさせている工業国日本が、目に見えている食糧難の時代にはこうした百姓から食料を奪い取るのである。国民を視野においた食糧管理をするのである。百姓も平等に飢えろと主張するのである。

 すでに『百姓の一筆』にも書いたが、戦後の食糧不足の時には、農家の床板を剥がし、押し入れをあけて都会は食糧を強奪した。米を作らせたいために「農家の皆さんご苦労さん」と言い、米作り日本一を競わせた。

 足りてくると、食管が赤字になるからとして減反をさせた。高ければ外国から買うぞと脅し、安くさせ、げんに外国からしこたま買って飲食している。農業をいじめられるだけいじめた。おまけにその飽食は、日本の国土破綻と、世界中の環境破壊をともなっていた、お金が動く、交易をするという事は、そういうことであった、

 百姓、農民の困惑をよそに「おれたりはいつも食う、飢えるときは百姓、農民も一緒だ」であった。飢えるときは一所懸命作らせ、足りれば安く買い、外国が安ければ外国から買って食う、であった。

 これでなぜ、外国から食糧を得られなければ再び日本の農業によって食う、平等に食う、なのであろうか。そう言いたいところだが、人間といういきものはなんとしても胃袋ひとつに食いものを詰めなければならない動物である。百姓、農民がもう許せぬと言っても、都会のためには政府は権力を使って食糧強奪に出てくるに決まっているのである。百姓もまた飢えさせられる。私には私自身の、強奪されぬうちにと、まだ青い生米を食っている姿が目に浮かぶ。

 決してそういうことがないと言うなら(言ったってウソに決まっているが)、私は米価十倍論など書かなかった。たとえ米価が十分の一になろうと、おとなしく土に這いつくばって百姓をしてりゃいいのである。国がつぶれようがどうなろうが、小さな田畑ひとつあれば生きていられる。]

 この文章は埼玉で農業を営んでいる田中佳宏という人が書いた「米価十倍にしなけりゃ日本はつぶれる」(社会思想社)という本の一九四、一九五頁の抜粋です。

 もう二年位前にふっと買って読んだ本だけど、その時のショックがこの秋に蘇り、ついまたパラパラと目を通してしまいました。目次を見ると『序 ただの百姓からの問い』から始まり、『一、ふたつの米価十倍論』『二、生きのびる人間』『三、なぜ十倍か』『四、土は近代化しない』『五、工業と農業』『六、工業で食ってゆけるか』『七、交易は善であるか』『八、交易を変える「地域」』『九、米価を考える』『十、進む田んぼつぶしと大規模化』『十一、農業中心の世界』『十二、米価十倍の世界』『おわりに~おてんとさまが昇るかぎりひとは生きる』と続く。

 抜粋したところは最後の方の章にある分で、わあわざこんな極論を一百姓の自分が書いた理由を簡潔に述べています。少々激しい文ですが、全体としては結構おどけた面白い人です。

 「米価十倍論」という、一見物凄い極論に聞こえる題名にいろいろと異論もある事と思いますが、そういう方こそ是非読んでみませんか。個人的な感想を一言で言うと、日常に埋もれ、日常に忘れ去られた日常を改めて突きつけられた、という感じです。一度読んでしまえば後に二度も三度も読むような本ではありません…去年今年の二年連続の不作というような事さえなければ…ですが。

 もしも…もしも来年やそれ以降、今年程度かそれ以上の気候変動が続けば、この本の中に書いてある大部分の事が、きっと重大な意味を持ってくることでしょう。【カズ】

 


今年の北海道産米の作況指数への疑問

 今回の道草閑談は期せずして冷夏特集のようになった。僕としては、国家の政策やら政治的思惑などよりむしろ自然環境の変化の方がよほど気かがりなのだけれど、ある意味では予想できた…おかしな出来事について少し書きたい。

 農水省が九月三十日に発表した今年の道産水稲作況指数は四十六だった。ところがわずか一か月前の調査ではなんと八十八だった。この四十二ポイントの差を誤差と呼ぶのは、あまりにもシラジラしい。共済金や災害資金の目減りを意図したのか、パニックを少しでも後らせたかったのか、それとも自然条件と稲の生育状況に関する過去何十年もの間のデータがまったく意味をなさないほどの異常気象だったのか。僕にはわからない。いや、おそらくはこのどれもが関係しているのであろう。

 人間の様々な利害や思惑で、どのように科学的結果や統計学的結果の数字を操作してもいつか必ず具体的な現実が目の前に現れる日がやってくる。そして、人間の意図するもの(あるいは無意識の行為でも)と自然界の法則との距離が開けば開くほど、訪れる現実や事実はいっそう厳しいものになる。

 ほんのりょっぴり新聞記者だった事があるけれど、メディアというものは…とくに広告宣伝量で生きているメディアという情報媒体は、様々なシガラミや思惑を経て発表されたり起きたりした事を、様々なシガラミや思惑で「ろ過」して発表する事が多い。

 たとえ初めは間違いだらけでも、自分の目、耳、手、足、口、肌、そして直感を信じたいなぁと思う。…とは言いつつ、さすがに今年の天気、あまりにひどいので、このところ新聞を街に行くたびにちょくちょく買ってきている。だけど、こと米の作柄に関する限り、事実の掲載はまだまだ「時、なお早し」のようだ。九月十五日現在の農水省発表の全国平均作況指数は八十.…そして近隣の水田。そこに広がる風景が何よりの事実である。