世界が滅んでリセットされる夢

 

今日は以前に見た夢の続きを見た(気がする)

 

よくわからないけれど気が付けば見慣れない施設にいて、ハジメマシテの人たち(老若男女)がたくさんいて、よくわからないままに私はそこの人たちと仲良くなったり仲悪くなったりします。

 

その施設での生活がどうやら終わるころ、知らされるのです。世界はもう何度目か(確か5、6回目)のリセットの日。その施設は宇宙船か地下のシェルターか何かで、人類がこれまで作り上げた地上の世界が崩れ落ちる間、何十人か何百人かの人間が、そこでじっとソレが終わるのを待つのです。

 

私はそれを知った時、「マトリックスターミネーター(3)じゃん!」という突っ込みを入れてました…

 

今、ごくわずかな人が一時の富を得るために、人類には滅ぶ(自滅する)以外の道があるとは思えない。

 

そんな考えから抜け出せない26歳です。

 

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撮る「自然」から感じる「自然」へ

福島原発事故があって、その1年後に大学を休学をし、両親は離婚して、母と弟たちが石垣島へ旅立ち、そして私は実家を出て旭川市内で一人暮らしをはじめ社会人になった。農園のある実家から比べれば「コンクリートジャングル」の旭川の街なかの便利な生活にすっかり魅了された。何とか車も持てたから何時に何をするのもどこへ行くのも自由だった。車がなければ実家のある町の中心部に出ることすら難しいところに住んでいたからそれはもう別世界で、4年と少し、自由気ままなひとり暮らしを私なりに楽しんだ。

 

小~中学生ころから、父が使わなくなった携帯電話をもらってカメラ代わりに使い始めたのを皮切りに、デジカメや、高校から持ち始めた自分の携帯電話、スマホ、そして今はミラーレス一眼(オリンパスのPEN)で、写真を撮るのはささやかな私の趣味になった。風景や草花、コロコロと表情を変える弟たちの写真ばかりを撮っていた。

 

父のコンデジや自分のミラーレスに触れてからは、塩狩駅の桜や、遠軽のコスモス、江丹別の水芭蕉常磐公園の睡蓮、しばれた冬の朝の大雪山などを撮るために出かけた。旭川だって東京なんかと比べたら田舎かもしれないけど、旭川の街なかに住み始めてからの私にとって自然は、わざわざカメラを準備して撮りに行く、見に行く自然だった。

 

今は昼でも夜でも、救急車の音も消防車の音も一度も聞こえない。

車の音すら、他人の足音すら、家にいたら1日に一度聞くかどうか。

星々の明かりをかき消す街灯はひとつもなく、夜空を切り取る建物はなく、山の黒々とした稜線が紺碧の大空にうっすら見える。夜に仕事から帰ってくるたび、降り注がんばかりの星たちにしばしポカンとなる。

 

そんな場所に戻った今、春を迎え、ふきのとうや蓬や様々な雑草が芽吹いて、撮影の題材はそこら中にあるものの、わざわざカメラを取り出そうという機会が減った。

 

風が吹いて、干し草のような春の乾いた匂いをかぐ。弱々しくもあたたかい太陽の光を体いっぱいに感じる。雪の下でひそかに息づいていた命の芽吹きに目を細める。

 

毎日、ちいさなリズムを刻みながら少しずつ少しずつ進んでいく季節を体で感じられるから、画像データとして残したいという欲求が少し削られたみたいだ。

 

撮る「自然」から、感じる「自然」へ。

 

 

でも、本当にきれいだから、時には撮るけどね^ ^

写真も勉強中なのだ。

幸福への憧れ

 

当麻の実家に引っ越して、2階の2つの子ども部屋を整理していたら、古い古いオルゴールを発見した。

写真ではわかりづらいけど、ホコリまみれ。でもホコリをかぶっても、このオルゴールを見ると、うっとりと憧れるような気持ちになるのは子どものころと変わらなかった。

窓辺から溢れる花々。ゆっくりとまわる水車。きっとこの家に住むのは大家族で、犬や猫を飼っていて、窓辺には鳥が遊びに来る。鳥のさえずりや家族の笑い声が絶えず、家の周りには豊かな緑が広がって、頭上にはどこまでも青い空が続く。そんな情景を想像させるすてきな家だ。

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いくら想い出の品でも、もうなんでもとっておくのはやめようと、色々なものを捨てた。このオルゴールも、ザラザラした表面なのでホコリを完全に取り除くのは難しいし、捨ててしまおうと思った。

 

けれど、ふと思い立って、家の裏側にあるレバーを動かした。その途端、やさしいメロディが、ポロンポロンと流れ出した。何の曲かはわからないけれど、やさしいメロディ。

私はしばしその音色に聞き入ってしまった。

 

だんだんと止まりそうなほどにテンポが落ちていくメロディ。水車を手動で回せば、またもとの早さで鳴り出す。

 

私は掃除機とぞうきんを使って、軽くホコリをぬぐった。

やっぱり、捨てられないな。

私はそのオルゴールを、子どものころ使っていた学習机にそっと置いた。

 

今日の発見~亡き骸と芽吹き・トマトの風船

 

これからトマトや大豆を植えていくハウスのゴミ拾いをしていたら、去年の秋に植えたらすぐ冬が来てあまり大きくならなかった大根の場所に、新しい大根の葉っぱ。

一株引っこ抜いたら、ひょろひょろの白い大根がちゃんと育っていたよ。

 

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それから人参を植えていた場所には、やっぱり人参。

去年地面の上で溶けてしまった実の場所から、新しい葉っぱ。

人参の亡骸の側に、新しい命。

なんだかお墓のように見えた。

 

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白いビニール紐やグリーンのマルチを拾っていたら、なんだか黄色いビニールみたいのがチラホラ落ちているなあと思っていた。こんな素材畑で使っていたかなと考えていたら、風船のように膨らんだ黄色い物体が。その膨らみでわかりました。

 

トマトだ!

 

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去年地面に落ちたトマトの実が、中身だけとろけて、皮だけ雪の下に残っていたのだった。トマトの風船みたいで面白かった。

 

ただ土の上を歩いているだけでいろんな発見がある。

トンネルの向こうへ

 

もしもし。

 

今日も一生懸命仕事をして、

 

仲間や上司と楽しく飲み、

 

新しい街へ期待を膨らませていますか。

 

あなたにとって未来は明るいですか。

 

さみしくはないですか。

 

 

どうかカッコつけないで。

 

本当に欲しいものを取りに行ってください。

 

あなたの名前が日本中に轟くのを、

 

私の耳に届くのを、

 

そして、

 

 

あなたが応えてくれるのを、待っています。

 

 

何年でも。

 

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立ちながらブログを書く

最近は、つぶやき的な記事は、思い立ったらぱっとパソコンを開いて立ったまま書くことが多い。

ひとつの記事を書くために熟考しない。そのとき噴き出した感情のままに書く。時にはボロボロ泣きながら書くこともある。

たぶん時間をかけて慎重に書けば書くほどそのとき溢れた感情は冷めて、ブログ上では、その感情の誕生はまるでなかったことになる。心がヒートアップしたことは覚えていても、刹那的に打ち上げられた言葉はもう二度と同じようには蘇らない気がする。

コーヒーを入れて、ゆっくりと椅子に腰を落ち着け、さあ書こう、としても結局書けない。だからしばらくは恥さらしのような文章でも、残したいと思った言葉をどんどん垂れ流していくことにする。

なるべく自分の心に耳を澄まして、指先がほとんどリアルタイムで感情を書きなぐっていく。

なので…お見苦しい文章の数々、お許しを…

なにかの、雑草の、芽。

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昨日、菜っ葉やらキュウリやらを植える予定のハウスの中で、桑を使って溝を作っていたら、土の中から、パラパラ、パラパラと、芽。

 

なにかの…雑草の…芽。

 

この小さいまだ弱々しい芽が、あと数か月したら私たちを悩ませる強靭で不死身の雑草になるのか…!と一瞬憎々しく思ったけど、やっぱりかわいい。

 

きっとまだ芽も出ないたくさんの小さな小さな種が、土の中でムズムズしていて、だんだん暖かくなってきた陽ざしに向けて顔を出したくなったり、でもやっぱりまだ寒くて寝ていたくなったりしてるんだろうな。人間みたいだな(でも私はポカポカ陽気の中でも寝ていたい…)

 

春は、土の中から突如現われた名も知らぬ雑草の芽や、雪解けのすき間から顔を出すフキノトウの黄緑色や、ヨモギの赤ちゃんのやわらかそうな葉に、いちいちハッとさせられる、そんな季節です。あ、今日は白鳥がたくさん田んぼの上で鳴いていたな。

 

自然の中にいることだけが、私の救いです。