撮る「自然」から感じる「自然」へ

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福島原発事故があって、その1年後に大学を休学をし、両親は離婚して、母と弟たちが石垣島へ旅立ち、そして私は実家を出て旭川市内で一人暮らしをはじめ社会人になった。農園のある実家から比べれば「コンクリートジャングル」の旭川の街なかの便利な生活にすっかり魅了された。何とか車も持てたから何時に何をするのもどこへ行くのも自由だった。車がなければ実家のある町の中心部に出ることすら難しいところに住んでいたからそれはもう別世界で、4年と少し、自由気ままなひとり暮らしを私なりに楽しんだ。

 

小~中学生ころから、父が使わなくなった携帯電話をもらってカメラ代わりに使い始めたのを皮切りに、デジカメや、高校から持ち始めた自分の携帯電話、スマホ、そして今はミラーレス一眼(オリンパスのPEN)で、写真を撮るのはささやかな私の趣味になった。風景や草花、コロコロと表情を変える弟たちの写真ばかりを撮っていた。

 

父のコンデジや自分のミラーレスに触れてからは、塩狩駅の桜や、遠軽のコスモス、江丹別の水芭蕉常磐公園の睡蓮、しばれた冬の朝の大雪山などを撮るために出かけた。旭川だって東京なんかと比べたら田舎かもしれないけど、旭川の街なかに住み始めてからの私にとって自然は、わざわざカメラを準備して撮りに行く、見に行く自然だった。

 

今は昼でも夜でも、救急車の音も消防車の音も一度も聞こえない。

車の音すら、他人の足音すら、家にいたら1日に一度聞くかどうか。

星々の明かりをかき消す街灯はひとつもなく、夜空を切り取る建物はなく、山の黒々とした稜線が紺碧の大空にうっすら見える。夜に仕事から帰ってくるたび、降り注がんばかりの星たちにしばしポカンとなる。

 

そんな場所に戻った今、春を迎え、ふきのとうや蓬や様々な雑草が芽吹いて、撮影の題材はそこら中にあるものの、わざわざカメラを取り出そうという機会が減った。

 

風が吹いて、干し草のような春の乾いた匂いをかぐ。弱々しくもあたたかい太陽の光を体いっぱいに感じる。雪の下でひそかに息づいていた命の芽吹きに目を細める。

 

毎日、ちいさなリズムを刻みながら少しずつ少しずつ進んでいく季節を体で感じられるから、画像データとして残したいという欲求が少し削られたみたいだ。

 

撮る「自然」から、感じる「自然」へ。

 

 

でも、本当にきれいだから、時には撮るけどね^ ^

写真も勉強中なのだ。