たからもの
仕事を増やした。毎日毎日、1か所か2か所、働きに行く。
家でのんびり、自分の時間がたっぷりある生活が好きな私が、それとは真逆のことをしている。空虚な時間を、考えなければならないことを考える時間を、少しでも埋めたい。
遠くの空の下にいる友達の様子をツイッターなどで見ていて思う。自分のことを誰も知らない土地に生き、全くまっさらな状態から人生をやり直せたらいいのに。そのときは今より無知でバカな人間になりたい。とほうもない夢や希望を真顔で信じられる人間になりたい。
でもどこか新しい土地へ行ったところで、出会ってきた人も、経験してきたことも、修正できない。この虚しさが、どこかへ行ったところで簡単になくなるとは思えない。
最近は気持ちのいい秋晴れの日が続いて、薄い水色の高い空の下に、真っ白な雪をまとった青い青い大雪山が、紅葉の山々の向こうに気高くそびえているのが見える。大きな両腕を広げて、おおらかにこの土地を包んでいるのが見える。
ああ、この眺め。この景色。大好きな北海道の、上川の、象徴的な景色。
どこか遠くへ行ったとしても、この景色を、私は心の底から恋しく思うだろう。
いくつもない宝物の、この景色は間違いなくそのひとつだ。
『君の名は。』鑑賞
私はあまのじゃくなのか、世間で騒がれすぎていると自分もそのブームに乗るのが嫌で、落ち着いたころに見よう、と思ってしまう。なので、「君の名は。」も今頃鑑賞。先月くらいからDVDレンタルが始まったからね。
新海誠のアニメーションは映像の美しさに定評があるのはいまさら触れるまでもないけど、そのストーリーや登場人物たちの「語り」にもかなり特徴がある。
主人公たちはみな、心にぽっかりと空いた穴を抱え、虚空をつかむように「誰か」を探している。
「君の名は。」もまさにそんな独白で始まったので、ああ、今回も新海節が炸裂しているなぁーと思いながら見たけれど、今回のストーリーは今までの作品と比べると、若干対象年齢を下げたのかな、という印象だった。過去と未来、夢と現実を行ったり来たりするのでそういう意味では時系列をつかむのが難しいけれど、主人公たちの感情はピュアでまっすぐで、わかりやすいと言っても差し支えないものだったと思う。
新海氏の代表作「秒速5センチメートル」は3つのストーリーが連なってできているが、それぞれの登場人物たちは、想い人への純粋な想いを抱きながらも、より現実的な虚無感ややりきれなさと直面し続け、互いの人生はすれ違い続ける。アニメでありながら、大人の恋愛映画とも言えた。
「君の名は。」はそういう意味ではすごいハッピーエンドだったし、ファンタジー要素が強いので、美しい映像と軽快な展開で楽しませてくれるエンタメ映画だったかな。
(ようするにおもしろかったけど「秒速5センチ」が好き、結局。山崎まさよしのOne more time, One more chanceが映画を倍すばらしくしているのもあるしね)
さあて、先日も映画を一度に15本くらい(←ちょっと病気じゃない?)借りてしまったのでがんばって見よう。
以下に借りた映画並べとこう。過去のヒット作もかなりあり
(邦画)
キセキ / 愚行録 / 日本のいちばん長い日 / ヒーローマニア / 夕凪の街、桜の国 / エイプリルフールズ / 電車男 / フラガール / 22年目の告白-私が殺人犯です-
(洋画)
ムーンライト / はじまりへの旅 / バトルシップ / ローガン
(アニメ)
君の名は。 / マイマイ新子と千年の魔法 (「この世界の片隅に」借りたいのにいつも全部借りられている)
絶頂とうつろい
初雪も近いだろう。家のまわりの山々は、紅葉がピークを迎えている。
寒い日を重ねるたびに濃く鮮やかに色付いていく木々を見ながら、私は新鮮な驚きを隠せない。
こんなにきれいだったっけ?
夏の瑞々しく力強い森の緑にも、美しすぎてまるで絵のような秋の紅葉にも、私はまるで騙されたような気分になる。毎年見ているはずなのに、いつも新鮮なのだ。
それと同時に思う。わざわざロープウェイに乗って高い山に行かなくたって、名所と言われる場所に出かけなくたって、私はここで、移ろいゆく季節を、毎日つぶさにこの目でとらえることができている。紅葉の木々の中を毎日仕事に向かい、毎日家に帰る。名所で紅葉の絶頂だけを見るより、紅葉の中で暮らすことができることの方が、ずっと幸せで贅沢なんじゃないか。そんなふうに思った。
ちなみに北海道の最高峰・大雪山連峰も、雲がない日は、ああ、真っ白に雪化粧しているなあ。ああ、今日はだいぶ融けたんだなあ。と、牛乳配達しながら毎日見守っている。
(↑2017/10/1)
(↑2017/10/1)
(↑2017/10/1)
(↑2017/10/1)
(↑2017/10/11)
(↑2017/10/11 以上全てOLYMPUS PENで撮影@うちの前)
恋があったこと WOWOWドラマ『私という運命について』
誰に迷惑をかけたわけでもないし
うしろめたいことでもないのに
誰にも話すことができない
だからこそ私の胸の中で
それは静かに輝きを増し
尊さはふくらむ
WOWOWドラマ『私という運命について』(原作:白石一文)に出てくる
「思い込んだら命がけ」という言葉が少しだけ勇気をくれる
相手のあるはずの恋だとしても
これは私ひとりの身勝手な思い込み
ドラマの登場人物の言葉を借りて、思い込みの激しい私は、あなたに言いたい
「あなたはどうして間違ってしまったのですか」
世界からコンバインが消えたなら
今日は我が家の稲刈りだった。知り合いの無農薬の農家さんが、稲を刈って脱穀するコンバインと、脱穀したお米を運ぶ小さなトラックを持ってきて、刈ってくれた。
私が実家にいた高校生までは、ほとんど手刈りで、はさがけという手法で乾燥させていたので、コンバインという巨大な機械で稲を刈る様子を間近で見るのは、恥ずかしながらほぼ初めてだった。
今日は晴天だったものの、何日か雨が続いた後だったので、田んぼはかなり水を含んでいた。コンバインのキャタピラーが通った後の轍を見てびっくり。その深さと、それでも泥にハマらないコンバインに。
コンバインという機械はあまりに有能だった。次々と稲を根元から刈り取っては先端の稲穂を脱穀し、残った茎や葉は何等分かに切り刻んで田んぼに戻していく。何百キロもの籾のついたお米は、コンバインの中にストックされていく。
長辺が3メートル以上はあろうかというキャタピラーだからさぞ走る速度は遅く、小回りがきかないかと思いきや、サクサク走るし、クルクル回れる。プロの農家さんに比べたらわずかしかないうちの水田は、あっという間に稲刈りが終わってしまった。
↑コンバインが水田に入るところ。なんとも、かっこいい。
私は猛烈な速さで稲を刈り脱穀していく巨大な赤いマシンを見ながら、ぼんやり考えた(機械と、運転手さんが有能すぎて、何もやることがない(;^_^A)。
こんな立派な機械があるから、農家が減っても、日本中の人たちのお米を賄えている。田植え機もそうだし、農薬をまく機械もそうだ。手作業ではとても終えられない仕事を、巨大で高価な農業機械たちが肩代わりしてくれている。
『世界から猫が消えたなら』という小説(映画)を見たけど、もし「世界からコンバインが消えたなら」と考えた。田んぼで重そうに穂を垂らす稲をすべて手で刈れるだろうか。冬までに刈れなければお米は重たい雪に埋もれてしまう。そうなれば向こう1年の国民の主食は食卓から消える。
国民はその危機を理解できるだろうか。「これは大変だ」とみんなで稲を刈ってくれるだろうか。そんなところまで想像した。
全ての田んぼを手で刈る労力を魔法のように消してくれるコンバイン。すばらしい人間の発明。ありがたや、ありがたや、と思うと同時に、脳裏には打ち消せない想いが広がる。
それは一家に一枚、田んぼがあり、自分の食べる分は自分で作る。次の秋まで命を繋げられるかは、お天道様と、自分たちの労働にかかっている。そんな暮らしが、一番幸せなんじゃないか…
そんな想いだ。
↑とにもかくにも、稲を刈り脱穀していくコンバインを見ているのはとてもおもしろかった。
↑ひと仕事終えて、栗の枝にぶつかりながら山(つまりうちの畑)を下りていくコンバイン。おつかれさま。刈ってくれた先輩農家のKさん、ありがとうございました。
そういえば、今日、初・雪虫でした…!
大雪山も初冠雪が報じられたし、冬も本当に間近、な北海道です。
地球の裏側のともだち
こんなにもあっという間に、あの冬の日からどんどん季節が進んで
だんだん、だんだんと、醜い気持ちが、負の感情がそぎ落とされて
気がつけば
あなたはいつの間にか私の心の一番奥に入り込んで
殺伐とした場所で唯一のぬくもりみたいになっているよ
もんもんと悩むとき、苦しむとき、
心の中のそのぬくもりに問いかけてみる
こんなとき、あなたならどうする?
私はあなたのことを、ほんとはあまり知らない
だからあなたがなんて答えるかなんてわからないけれど
連絡を取り合うことも難しい、もしかしたら一生会えないような、
まるで地球の裏側にいる親友のような、
そんな、会いに行ける場所の中で最も遠いけれど、最も大事な、
そんな存在になっているよ
価値ある生き物になる方法
今日は秋晴れの空の下の畑で、風が心地よくて「気持ちいいー」とつぶやいた。
枯れた草の乾いた匂い。どこか、なつかしい。
秋の畑は、死の気配に満ちている。
いたるところで生命が力尽き、大地に身を転がす。ただひと夏、生命を謳歌した者たちの、最期の仕事だ。
風に、森に、空に、鳥たちに、草の上で力尽きて干からびた虫の死骸や、カラカラに乾いて倒れた大豆の枝や、熟れてつぶれた真っ赤なトマトに、言われている気がした。
おまえが苦しもうが、嘆こうが、死にたいと思おうが、幸福になろうがなるまいが、知ったこっちゃない。
ただ生物として生きて死ねばよい。
生きているときはただ生き、死ぬときはただ死ねばよい。
そして最後に次の命の糧になればよい。
それが生物のなすべきただひとつのことだよ