劇団四季『ライオンキング』を見て

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北海道の四季劇場で、2018年5月27日、1年以上のロングラン公演『ライオンキング』が千秋楽を迎えるということで、終わりも近い23日(水)に観劇に行った。ミュージカルというものを生で見るのは、初めての体験だった(今年の1月頃、消えてしまいたいという気持ちが頂点に達した時、どうせ死ぬならまだ体験してないものを体験してみようと思って、何カ月も先のチケットを取ったのだった)。

 

ディズニーアニメの『ライオンキング』は大好きだし、子どものころ、ディズニーアニメの歌唱シーンばかり集めたビデオを何回も見て一緒に歌っていたし、大人になってからも『ラ・ラ・ランド』にはまったり、『メリー・ポピンズ』や『美女と野獣』のサントラを聞き続けていて、たぶんミュージカルの『ライオンキング』を見ても、きっと自分は大きく心を揺さぶられるタイプの人間だろうと分かっていた。帰ってきたら、アニメを見返し、サントラを延々聞きまくる日々になるだろうと。大げさじゃなく。

そしたら、本当にそうなった…(笑)

 

『ライオンキング』はあの有名なシーン、プライドロックのライオンの王ムファサに王子が生まれ、お披露目の式で王国中の動物が集まり祝福をするところから始まる。いきなりの見せ場だ。舞台いっぱいに巨大な真っ赤な太陽が昇り、様々な動物たちが、それぞれの歩みで集まってくる。躍動感と喜びにあふれる音楽とともに…それはとにかく盛り上がる賑やかで楽しい場面なのに、いきなり私は泣いた。

 

あの時の気持ちを言葉にするのは本当に難しい。世界観に引き込まれたとか、雰囲気に呑まれたというのとはちょっと違って、たぶん、私はいきなり、あの舞台をつくる人たちの、火傷しそうなほどの情熱に触れて、それに呼応するように、自然に涙があふれていた。小さい子が、怖くなくてもびっくりしただけで泣いてしまう感じにも似ていたかもしれない。心の底から、私はびっくりした。人間は、ほんとうにもう、人間というものは、なんというものをつくってしまうのだろう…!

 

2本足で立つ人間が、パペットを操ったり、かぶり物をかぶって、動物を演じる…それはすばらしい演技力ゆえに「動物にしか見えない」というわけではなく(演じる俳優の姿も顔もしっかり見える)、「パペットやかぶり物+俳優」で一体のキャラクターになっている…そういうかんじだった。でもやっぱりキャラクターは「人間」ではない。生きることに喜びを感じそれを全身で表現する野生の動物たちなのだ。

 

オープニングで多くの観客はきっと、セリフでも、ストーリーでもなく、王子シンバの誕生や祝福する野生動物たちの躍動感あふれる姿、喜びにあふれた音楽、腹の底から突き上げるようなコーラスで、この物語のテーマを一瞬で理解できる気がする。自分の食べ物を狩ることもなければ、土に還り自然の循環に加わることもない私たちが、忘れかけていること…それは「生命のくりかえす繋がり(circle of life)」。

 

私は、初めて会った(と言えるのか?)劇団四季のキャストたちを、舞台監督や照明や音楽や案内のスタッフたちを、そのオープニングの瞬間、心の底から尊敬し、愛していた。たかが開幕数分で、愛おしさがこみあげていた。たぶん、劇団四季というものを通して、彼らの舞台を通して、地球上に生きる生命や、人間というものに対しての愛おしさを、私は抱かずにいられなかった。

 

こんなすばらしいものをつくってしまう人間は、もしかしたらまだ捨てたものではないのかも…と。そう思わせてくれるすばらしい舞台だった。本当に。

 

生の舞台のすてきなところのひとつが、エンディングのあとにカーテンコールがあることだ。物語の中で死んでしまったキャラクターも、怖かった悪役も、笑顔で手を振ってくれる。精一杯演じきった俳優たちの晴れやかな笑顔を見れて、私たち観客はもうとってもうれしい。物語とはまた別のところで、劇場が喜びに満ちあふれる。私が観劇した日は千秋楽の数日前だったからか、幕が下りてはまた上がって、俳優たちが手を振ってくれて、その度に帰ろうとした観客は大喜びで手を振り返す―というのを10回くらい繰り返した。何度も見に来ているようなファンは、後ろの席からどんどんステージ下まで俳優たちに近寄って行っていた。私も、客席の背後から駆け下りてきたシンバとナラの手にタッチすることができた(通路のすぐ横の席だったので、それ以外にも、客席後ろからノシノシ歩いてくるゾウを間近で見れたりした!)。カーテンコールのあの空気を感じることができて、本当に幸せだったなあ。

 

こうやってすばらしい芸術に触れると、いろいろなものに感謝せずにはいられない。

『ライオンキング』という名作を生みだしたディズニー製作スタッフ(アニメDVDの特典映像によると、やはり動物しか登場しないアニメーションが世間にどこまで受け入れられるか、不安もありながらの製作だったようだ。けれど素晴らしい物語に共鳴して、私でも知っているようなエルドン・ジョンハンス・ジマーなど豪華なスタッフにも恵まれて『ライオンキング』は世に送り出されたのだ)。

アフリカのサバンナの世界観、キャラクターがすべて動物ということ、セリフに含まれるアフリカのズールー語…日本人にはハードルが高かっただろうに、アメリカのブロードウェイ上演ののち、わずか1年前後で日本でも上演を果たした劇団四季のチャレンジにも頭が下がる。

そして20年もの間、愛され続けて前代未聞のロングランを続けてきた劇団四季のキャストやスタッフの皆さんに本当に感謝だ。私がこの春こんな感動を味わえたのは、彼らの長年のたゆまぬ努力のおかげなのだ。そして私同様、『ライオンキング』に大きな感動をもらって四季の舞台を愛し続けてきた観客のおかげでもあるのかな…きっと。私も機会あるごとに見に行って、微力ながらファンとして彼らを支えたいと思いました。

 

さて、だんだん暑くなってきた北海道ですが、『ライオンキング』のミュージカル版のサントラ聞きながら畑仕事がむばりまする。

やさいに懺悔

 

最近、「暮らし上手の○○」というシリーズの本を図書館で借りてずっと読んでいる。

たとえば、

・暮らし上手のワードローブ

・暮らし上手のお弁当

・暮らし上手のパンとスープ

・暮らし上手のおうちごはん

などなど。おもに料理のレシピばかり熟読しているのだけど、とにかく「野菜にそんな取り合わせもありなのね!」「これは試したい!」と思わせるものが多い工夫にあふれたアイディアが満載のシリーズで、とても楽しいのだ。手帳代わりに使っているノートに、レシピのメモがどんどんたまっていく。

 

一方、畑ではだんだんと野菜が育ち始めている。すでに収穫しているのは菜っぱ類と成長の早いカブくらいだが、もうすぐなのは、キュウリやエンドウ。そして待ち遠しいトマトやナス、シソ、ピーマン、ササギ、カボチャ、枝豆、ニンジン、トウモロコシ…と続いていく。

 

とうとう仕事をひとつに絞って、1日のほとんどを家や畑で過ごしているので、人生でたぶんもっとも、料理をする時間ができた今、日々野菜たちに詫び悔いている。

「今まで、いっつもおんなじ食べ方ばかりで、君たちの良さを活かしきれていなくてすまなかったね…(:_;)」

「今年はもっと大事に食べるからね…だから早く大きくおなり」←そこかい

 

これは今日のお昼につくったカブとまびきダイコンとミズナのサラダ~

ボウルの水滴ぐらい拭きなさいよってね。

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あの人は気が付いていたのかも 『Tiny Dancer』 by Chara『Sympathy』

「きっとバレてないはず」と思ったことは、「いや、きっとバレてる」と思いなおすようにしている。

あの同僚も、あの友達も、父親も、もう会えない遠くのあの人も。

ずる賢いはずの私のいやしい気持ちも、本当の欲望も、きっとバレてる。

 

そう考えれば、ずるく立ち回る自分の愚かさを、卑怯さを認めて、もっと謙虚になれる。隠し通したつもりのあの人は、少なくとも私より賢いはずだもの。

 

Charaの『Tiny Dancer』と、収録されているアルバム『Sympathy』が本当にすばらしい。どこまでも清々しいほどに明るく切ない。

 

私が置いていく物は

小さな態度

心を揺らしてしまえ

置いてきたわ

あなたへの気持ち

 

傷つく事を 曖昧にして

全て残さず踊りきったダンサーみたいに

あなたは想い出にしていくの

 

あの人は気が付いていたのかも

愛した事は真実

あの人は気が付いていたのかも

愛した事は真実

あの人は気が付いていたのかも

愛した事は真実

      from 『Tiny Dancer』 by Chara『Sympathy』

 

どんな思想が、価値観が、育った環境が、真実を覆い隠そうとしても

きっと気が付いているよね

愛した事は真実

 

部屋に世界地図をはってみると

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昨日、折りたたまれている状態で売っていた一枚の(本の形ではない)世界地図を買ってきた。サイズで言うとA0かな。

 

パソコンや本棚のある机のすぐ右横の壁に貼る。世界地図って、なんでこう、ずっと見ていられるんだろう。

 

買ってよかった。ほんとによかった。A4より小さいサイズに折りたたまれた地図を広げて、最初に眺めた時に、頭に浮かんでは消えた思いや考えを、せっかくだから箇条書きしてみようと思う。

 

・日本ってこんなに頭でっかちなカタチなのか!(本州を胴体、北海道を頭とすると、頭、でかい!)

・来年は九州を巡ろうと思っていたけど、北海道に比べりゃ、ナンダ小さい小さい!余裕余裕!笑

石垣島と台湾は見事に緯度が同じ。

・映画「Into The Wild」の原作「荒野へ」(ジョン・クラカワー)を読んでいるので、どうしても目はアラスカのフェアバンクスへ向く。

ニュージーランドってインドネシアあたりにあると思ってた…意外と寒そう

ブエノスアイレスってロシアの都市だと思ってた(響き的に)

・カナダの北東側は大きな島がたくさんあるけど、グリーンランドと同じ緯度だし永久凍土なのかなあ

・アメリカもカナダもロシアも、こんなに大きな大陸をどうやって統治・管理してるんだろう…

・青森とニューヨークの緯度がほぼ同じなんや!

・日本って、ほんとうに、ちいさくって、危うい位置にあるんだなあ…(日本を中心に描いた世界地図だからそう感じるのかもしれないけど。ヨーロッパやアメリカから見たら日本は世界の端っこ?)

 

今まで、世界に対して興味が薄かったから、だいたい無知からくる驚きばっかりなんだけど。

やっぱり一番驚きなのは、「私が、世界地図を見て、行ってみたくてウズウズしてること」!

つい数か月前までは考えられなかったことなのだ。

世界に目を向けている人は、たとえ親が旅行好きじゃなくても、自分の力で10代や20代前半から海外に行っているわけで、出遅れたかのような焦りはあるにはあるんだけど、実際は「そんなのかんけーねー!」わけで。

やっと興味を持てた今がスタート。自分にそう言い聞かせて、世界一周や海外旅行の紀行などを読みながら、旅立つはずの来年に向けて、モチベーションを高めるのである!

 

北海道を旅立つときは、この地図を再び折りたたんで持って行きたい。

 

自分だけの「語る言葉」を持ちたい

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今年に入って、私が3つの仕事のうち2つをやめて、農作業や日々の生活に集中する時間を作ったり、冬になったら北海道を出て色んな土地で暮らしてみたいのは、一言で言うと、「語る言葉」を持ちたいからなんだと思う。

 

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映画『ビリー・リンの永遠の1日』~永遠に戻れない日

「永遠の1日」って、永遠のように感じる1日って意味じゃなくって、「永遠にすべてがひっくり返ってしまって元には戻らない日」のことだと思う。

30年弱しか生きていない私にすら、そんな1日は存在する。きっと多くの人が、「その日」を思い浮かべられるのではないだろうか。

 

ビリー・リンにとってはそれが、たった19歳で経験したイラク戦争の戦場で、慕っていた先輩兵士を失った戦闘の日だった。けれども、戦場と遠く離れた母国アメリカは、危険を顧みず先輩兵士を助けに行った彼の勇姿をたたえ、戦意高揚の象徴として彼をヒーローとして大げさに祭り上げる。世界を見る目が変わってしまう、彼にとって人生最悪の日が、母国の人々に礼賛されて、利用されて…、最も馴染み深かったはずの家族や、母国や、うまくいきそうだったガール・フレンドとも埋められない隔たりを感じて、結局彼は2週間の一時帰国ののち、戦場へと戻っていく。

 

Filmarksの中のとある方のレビューで、「国を守るために戦地へ赴いている兵士たちの居場所が戦場だけになるなんて…」と書かれてあったのが印象的だった。ビリーにとって、文字通り生きるか死ぬかの激闘と訓練を共に乗り越えた隊の仲間たちが唯一、理解しあえる相手であり、戦場だけが、現実味を与えてくれる場所になってしまう。

 

この映画は、監督も俳優陣の演技も音楽も演出も脚本もタイトルまですばらしいのだけど、もっともすばらしいのは、多くのレビューでも書かれている通り、戦地を舞台に戦争の惨さや兵士たちの精神的ストレスを描くのではなく、平和な母国の日常に戻ってきた若い兵士たちに対する、薄っぺらな賛辞やエール、彼らの英雄譚を利用しようとするショービジネスに関わる人々といった外野のリアクションと、それに対する兵士たちの戸惑いや憤りを描いている点である。

 

「外野」とはつまり、戦争に行ったことのない「私たち全員」であるから、この映画を見た人は、平和な世界で些細な悩みごとに気を取られている自分を恥ずかしく思ったり、誰かがやらなければならない(とされている)ことを自分はやらずに誰かにやらせているということに思いをはせたりすることになる。この映画を真剣に見れば、決して自分も無関係に感じることはできないはずなのだ。そのように思わせることのできるこの映画の描き方が、本当にすごい。比較的抽象的な、大きなテーマを伝えるには、見る人に自分事としてとらえてもらうことが最も効果的だからだ。

 

戦地から一時帰還したビリーたちをたたえるチアガールのうちの一人と、戦地に戻るのをやめようか悩むほどに心を通わせるものの、最後の最後で、やはり彼女も自分を感動的な英雄譚のヒーローとしかとらえていない事実を突きつけられ、彼女の理想のヒーロー像に合わせて「母国を守るために戦地に戻る」と笑う彼が本当に切ない。

 

多くの人がレビューしている通り、この映画は、フットボールのハーフタイムショーに招かれた兵士たちが、「アメリカを代表するヒーロー」としてショーの演出の一部に組み込まれ(ディスティニーズ・チャイルドのパフォーマンスに合わせて行進する演出!)、目の前で打ちあがる花火の音や、叫び声に似た人々の歓声に、戦地の体験がフラッシュバック(PTSDの症状)する―つまり現実のショーと、回想が交錯するように描かれているのも、臨場感たっぷりですばらしい。

 

レンタルしたDVDの特典では、監督やキャストがより明確に登場人物の心情などを語っていて、映画を見終わった後に特典を見てもう一度泣いてしまった。私には、ビリーと、彼を必死で戦場に戻らせまいとするビリーと仲の良い姉の関係が、特別響くものがあった。弟が、苦しみ悩みぬいた末、自分の判断で「戦場に戻る」と決めたなら、私はビリーの姉のように、「あなたを誇りに思う」と送り出せるだろうか―。

 

実感しなければ、自分事にならなければ、何も語れない。最近強くそう思う私にとって、身近ではないはずの戦争や、そこで役割を果たす兵士のことを、今までよりは現実味をもって思いを寄せることができるようになった、とても大事な映画になった。ぜひ、たくさんの人に見てほしい。