桜は「春の訪れ」なんかじゃない

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ツイッターの中が桜の写真でにぎわっている。

テレビでも、代々木公園にお花見をしに来た人たちの姿を映したりしていて、世間はすっかり春の訪れを祝っている。それもとても華やかに、晴れ晴れしく、盛大に。

 

けれど…北海道の春は遅い。

今桜の開花を喜んでいる人たちよりも長いこと冬を耐えてきた。しかも気温は氷点下20度台に達するほどの厳しい冬だ。

今年は北海道すらも春の訪れがいつもより早めとはいえ、田んぼにも畑にも、まだまだ重たい雪が1m近く残っている。

朝方は未だ時々氷点下になり、アスファルトに流れ出た雪解け水が凍っていたりする。

 

そんな北海道の私たちが、やっと感じる春はとてもつつましやかで、じれったいほど控えめで、のんびりしている。

都会の人々は桜の木々を見上げて春を見つけるのかもしれないが、私たちは下を見下ろす。

雪が融けて現れたばかりの、去年の枯草の下から、ゆっくりと顔を持ち上げる、黄緑色の「春の妖精」を足元に見つける。それは、フキノトウ

 

野山で耳をすませば、融けかけた雪の下を、ちょろちょろと流れる水の音が聞こえる。

 

そして雪の面積がぐんぐん減っていき、地面が見えてくるほどに、春の野草や山菜が競うように顔を出し、花を咲かせる。福寿草ヨモギキバナノアマナ、つくし、たんぽぽ、ヤチブキ、カタクリエゾエンゴサク。そして、それらが終わったころやっと桜が咲く。その頃にはもう、5月を迎えているのだ。

 

私たちにとって桜は、春の訪れなどでは決してない。

足元の小さな生き物たちが、やさしく、控えめに教えてくれる春。まるで進んでいないかのように見えて、半歩ずつでも進んでいる、静かでのんびりとした春の、最後のおまけのようなもの。祭りの幕引きの、花火のようなものなのだ。