世界を見たい、人間を知りたい
スポンサーリンク
こんなツイートをした。
去年まで全く思わなかったことを、今年になって思うようになった。そのひとつが、海外に行きたい、ということ。私は、広くものが見えているような顔をして、本当は狭い世界にいたから、自分がどこへ向かいたいのか決めかねて本当に悩んでいる。だから世界を見たい。 #旅 #海外
— ブラックじゃないコーヒー (@Ms_HOPPY) 2018年2月6日
私は「未来に備えなきゃ」と思いすぎて、未来を全く気にかけないとしたらどうしたいかを考えることがヘタになっていた。
「正義」は、当たり前のごとく正しすぎて、それ以外の答えは許されないような息苦しさを感じるけれど、個々の人間にとって、大事なことがそれぞれ異なるのは当然のことだ。
私は世界に生きている、あらゆる人種の人、あらゆる職種の人、あらゆる「過去」を持つ人々が、何を思って人生の選択をしているのか、何が最も大事なことなのか、そんなことが知りたいと思った。つまり、いろんな人間のことが知りたい。
それと同時に世界の街や、日々の暮らしをする人々の姿を見てみたい、と初めて思った(今まで、海外にはぜんぜん興味なかった)。
私は多分、できるだけたくさんの人を許したいんだと思う。「こうじゃないきゃいけない」「人間はこれを大切にすべきだ」という私の狭い価値観を壊したい。私は恥ずかしいことに、ずっと、「同世代の友人たちより多くを知りすぎた(知りすぎて希望が持てない)」、と思っていたけれど、そういう部分もあるけれども、本当はとても狭い世界で生きてきたから、出口か、あるいは希望へつながるドアを、見失っていたのだ。
いつ人生が終わっても構わない。この思いはここ1年ずっと、変わらない。死ぬ前に成し遂げたいことなどない。たぶん海外に行きたいと思わなかったのは、怖かったからというのもあったと思うんだけど、今は、世界のどこかで誰にも知られずに野垂れ死んだとしても構わない。恐怖心が減ったからこそ、自分の小さな世界を飛び出さなければと思えたんだろうな。
でもほんとは、死ぬのが怖くてたまらないほど生きたいと思える方が、幸せなのかもしれないけど。