貯める?手放す? "未来"への備え方

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 大規模災害の発生や、北朝鮮の脅威などが騒がれると、何となく色んなものを集めて保管しておいた方がいいような気がしてくる。防災グッズしかり、食糧しかり、お金しかり。あればあるだけ安心(でも3日分?1週間分?1ヶ月分?いくらあっても完璧な安心はない)。

 

我が家にも、常にお米や調味料や保存のきく野菜や、ソーラーパネルやら蓄電器やら高性能マスクやらがある。車に入っている分以外のガソリンや薪などの燃料もある。

 

「何が起こるかわからない未来に備える」を前提として(全く備えないというのもアリなはずだ)、その備え方は、つい食料や燃料やグッズの備蓄にばかり目が向きがちだが(自治体単位などでは、もっともだと思うが)、「収入を最小限に、時間を最大限に暮らしたい」と思うようになってからは、「手放す」備えもあるのではないかと考えるようになった。

 

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ことの次第によっては、住み慣れた家、土地、地域を離れなければならないようなこともありうる。それが災害であり、テロや戦争でもある。でも、強制的に離れざるを得ない場合は、誤解を恐れずに言えば、まだいい。逃げても逃げなくてもご自由に、でも誰も責任は負えませんよ、みたいな事態になった時(覚えがあるよね?)、所有する不動産や、備蓄にかけてきたコストが高ければ高いほど、その判断(逃げるか逃げないか)は鈍る気がする。多くの場合、ため込んだ様々なものをすべて持ち出せはしないだろう(書きながら、眉村卓の「飢餓列島」を思い出している)。

 

それに、大げさに言えば備えすぎて家の中が防災グッズだらけになるような暮らしでは、何のために生きているのか分からない。来るかわからない「いつか」に気を取られては、いったいどこへ向かえばいいのかもわからない。

 

そんなジレンマをずっと抱えていたが、最近私の心を占めるようになった「収入を最小限に、時間を最大限に」はここ数年ブームになった「ミニマリズム」の考え方と結びつき、余計なものをそぎ落とし、身軽になることが、未来への一つの備えになるのではないかと思うようになった。

 

私が考える「余計なもの」とは、「お片づけブーム」や「断捨離ブーム」に象徴される「モノ」だけではなく、収入や仕事やマイホームや人間関係や、それらに対するあらゆる「執着」なんかが含まれる。

 

身軽でいることはひとつの「備え」だと思う。武器であると思う。所有するものが少ないこと、縛るものが少ないこと、つまりいつでもその場を飛び立てること、頑固にならずに、必要に応じていつでも方向性を、考えを変えられること。

 

こう考えると、「未来への備え」とはもはや、大規模な不測の事態への備えだけではなく、もっと「個人的な事情や、気持ち・価値観の変化」への備えとも言えるような気がしてきた。人間関係も、自分の気持ちも、社会情勢と同じように当然ずっと同じとは限らないわけで。

 

今までのやり方をなぞっていてはすんなりいかなくなってきたとき、思い切って方向転換を図ってみる、「心の身軽さ」があれば、「生活の身軽さ」も自然と手に入れられるのではないだろうか。

 

ちょっと横道に逸れた感も否めないが、"未来"への備えについて、今私はこのように考えている。あなたはどうする?

 

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